聖書  詩篇 98:1~9  宣教題 新しい歌を     説教者 中田義直

新しい年の慶びを申し上げます。この年が、良い一年となりますよう心よりお祈りいたします。今年も多くの方々が、お正月は初詣に出かけていることでしょう。そして、そこでもこの年が良い年になることを願って祈りがささげられていることでしょう。人生の幸せ、豊かな生活、平穏な毎日を願う心は様々な信仰を持つ人、どのような神を拝む人にも、そして、日ごろ自分は無神論者だ、無宗教だと言っている人も共通して持っているのではないでしょうか。それはクリスチャンも同様です。私たちもまた、人生の幸せ、豊かな生活、穏やかな日々を願っています。そして、私たちは祈りを捧げます。

私たちは祈りの中で、神様に自分の思いや願いを伝えます。そして、それと共に、神様の言葉に耳を傾けます。パウロはローマの手紙にこう記しています。「10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。キリストの言葉を聞く、そのことによって信仰が始まるとパウロは記しています。これは、キリストの言葉を聞くことによって、神様との関係が始まるといってもよいでしょう。パウロは、キリストの言葉を聞くことによって新しい人生を歩み始めました。それまでとは違う人生、それまでとは向かう方向が180度変わってしまう人生をパウロは歩み始めたのです。

その時パウロは、それまでの人生で大切だ、と思っていたものがそれほど重要でないことに気づきました。そして、それまで価値のないものと思っていたものが何よりも大切なものであったことに気づいたのです。パウロはコリントの信徒への手紙1に「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と記しました。これはパウロ自身の経験に基づく言葉です。パウロは十字架にかけられて殺されたイエスを救い主、キリストだと信じ、それを言い広めていたクリスチャンたちを迫害しました。彼は、この世で力をふるって世の中を変えていく人を救い主、キリストだと信じていたのです。この世の力によって殺されてしまっては何の意味もないと考えていたのです。ですから、十字架で殺されてイエスを救い主、キリストだといっている人たちをゆるすことができなかったのです。そのように考えていたのはパウロだけではありません。ユダヤの人たちはこの地上で力をふるい勝利をもたらす救い主を求めていたのです。

今日の聖書個所、詩篇98編の背景にあるのもこの世における勝利と言えるでしょう。この背景にはユダヤの人々が経験した大きな苦しみ、バビロン捕囚がありました。国が滅ぼされ、国の中で力ある人たちはみな捕囚としてバビロンに連れていかれました。エルサレム神殿も破壊され、信仰教の指導者たちもバビロンに連れていかれてしまいました。彼らは国を失うという経験をしたのです。圧倒的なバビロンの力の前に、彼らは抵抗することができませんでした。しかし、新興国だったペルシャが力を持ちキュロス王の時代にペルシャはバビロンに勝利しました。そして、キュロス王はバビロンに捕らえられていた人々を解放したのです。そして、キュロス王はエルサレム神殿の再建も許可しました。バビロンからの解放、それはこの世の力においてはキュロス王の率いるペルシャによる勝利であり、バビロンの敗北でした。しかし、解放されたユダヤの人々にとってこれは、神様がもたらしてくださった解放でした。その喜びがこの詩篇には溢れています。まさに新しい時代の到来です。

イエス様が、そして、パウロが生きていた時代のユダヤは、バビロン捕囚の時のように国を失ってしまったわけではありませんでした。神殿での礼拝も許されていました。しかし、彼らはローマの属国として屈辱的な思いを抱いていました。そして、ローマからの解放を願っていたのです。しかし、イエス・キリストは、この地上の勝利を超える勝利を私たちに与えてくださいました。それは、死に対する勝利であり、永遠の命という勝利でした。神様の愛による救い、神の民への招き、それが十字架の言葉であり、キリストの言葉です。パウロはこの言葉を聞いたのです。

それまでパウロが求めていたのは、ユダヤ人が勝利し、ローマをはじめとする異邦人が敗北することでした。しかし、キリストの言葉の前に敗北者となる人はいないのです。2017年を迎えた、今、世界では新しい帝国主義が広まっているといわれています。自分たちの国さえよければ、自分たちの民族さえよければ、そのためには他を犠牲にしてもかまわないという思想です。そのような時代の中にあっても、キリストの言葉は、ユダヤ人も、ローマ人も、ギリシャ人も、アメリカ人も、韓国人も、中国人も、日本人も、すべての民が皆、神の民へと招いているのです。死と滅び、絶望に対する勝利者へと招いているのです。

イエス・キリストがこの世に来られた今、私たちは、詩篇98編の言葉をキリストによる勝利、十字架の言葉によって、すべての民に与えられた喜びへの感謝の賛美として主を称えるのです。それが私たちの捧げる賛美、新しい歌なのです。

 

-祈り-

主なる神様、あなたの導きの中でここに呼び集められ、共に新しい年の最初の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

主よ、あなたは御子イエス様を通して私たちに新しい歌を歌う喜びを与えてくださいました。あなたは、私たちの思い、願いを超える喜びと祝福を用意してくださいました。しかし主よ、私たちはあなたに自分の願いや思いを祈るばかりです。主よ、どうかあなたの言葉に耳を傾ける心を与えてください。そして、あなたから与えられる「恵」、すでに私たちに届けられている祝福を心からの感謝をもって受け止めることができますよう、お導きください。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書ー

98:1 【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。

98:2 主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し

98:3 イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。

98:4 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。

98:5 琴に合わせてほめ歌え/琴に合わせ、楽の音に合わせて。

98:6 ラッパを吹き、角笛を響かせて/王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。

98:7 とどろけ、海とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものよ。

98:8 潮よ、手を打ち鳴らし/山々よ、共に喜び歌え

98:9 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き/諸国の民を公平に裁かれる。