聖書  マタイ 12:43~45  宣教題 心を満たすもの   説教者 中田義直

 

今日の聖書個所に記されているイエス様の言葉は、少し不思議な感じのするお話しです。

「12:43 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。12:44 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。12:45 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」

イエス様はこの話の結びで「その人の後の状態は前よりも悪くなる」とおっしゃっています。きっとその人は悪霊にとりつかれて、苦しんでいた人だったのでしょう。福音書には悪霊につかれた人の様子が記されています。体の自由がきかなくなる、正気を失う、人間関係が壊れて町で暮らせなくなった人などが登場します。そして、イエス様は「汚れた霊は人から出ていくと」とおっしゃっていますから、汚れた霊が自分から出ていったのか、もしくはイエス様のように霊に命じることのできる力ある人によってこの霊は追い出されたのでしょう。人にとりついていた霊が、その人から出てほかに行き場を求めているようすをイエス様は語っておられます。そして、行き場を見つけることのできなかった汚れた霊は再び元いた人のところに帰ってきたのです。すると、そこは空いたままで誰が入ってきてもよい状態になっていたのです。そこで、その汚れた霊は仲間を引き連れて元いたとこころ、元いた人のところに帰ってきたというのです。そして、その結果、その人の状態は前よりも悪くなってしまったとイエス様は話されました。

今日の聖書箇所でイエス様が話しておられること、それは、霊が出て行った人、言い換えれば霊との関係が切れた人のことといえるでしょう。そして、ここで語られている霊との関係が切れた人は、その後、ほかの何者とも関係を結んでいなかったのです。汚れた霊から解放されて、良い状態を取り戻したその人は、その人生をどのように歩もうか、ということを考えていなかったのではないでしょうか。

久しぶりに学生時代の友人と会った時のことですが、中高年になると健康のことが話題になります。そして自分の経験した病気のことが話題となった時のことです。今はとても健康に気を付けている友人ですが、不摂生が原因で同じ病気で二度入院したというのです。そして、二度目の時に看護士さんから「〇〇さんはせっかく良くなったのに、不摂生をするために健康になったのですか」と言われたそうです。彼ははっとしたそうです。健康であることは大事だけれども、何のための健康かということを考えずに同じことを繰り返してしまったと反省したというのです。

昨今の健康ブームを皮肉って、「命よりも健康が大事と思っている人がいる」などと言われますが、それはあながち冗談ではないのです。健康を自慢していた人が、その健康を失った時、生きる気力を失ってしまうということがあるそうです。健康を誇りにしていたので、それを失った時、心にぽっかりと穴が開いてしまうのです。「命よりも健康が大事」というのは人生の目的と、人生の手段が混じってしまい、手段であるべきことを人生の目標と勘違いしてしまったことによる悲喜劇といえるでしょう。

健康でも、富んでいても、人がうらやむような美しさや才能を持っていても、心にむなしさを覚えながら人生を歩んでいる人がいます。人生の目的を見失ったり、他者とのよい関係を持つことができないこと、そして、自分の存在の価値や意味を見失うとき、人の心は空しくなります。このような空しい心、空虚な心ほど汚れた霊たちにとって住み心地の良いところはありません。せっかく取り戻した健康を不摂生のために用いてしまったら、健康は失われてしまいます。以前よりも病はひどいものとなってしまうでしょう。同じように、せっかく汚れた霊との関係を断ち切っても、心が空虚で空しかったら、その隙間により悪い霊が住み着いてしまうかもしれません。

「困った時の神頼み」という言葉があります。それは、困ったときだけの神頼みということでしょう。日本は多神教の国です。そして、神様も分業です。この時期には受験に役に立つ学問の神様が、また別の時には、商売繁盛の神様、そして、縁結びの神様など人生の場面場面の必要に応じて、その時、必要な働きをしてくれる神様に祈ります。しかし、その関係はあくまでも私たちの必要によって求められるもといえるでしょう。イエス様に癒しを求めた人の中にも、困った時の神頼みで、癒していただくことだけを求めていた、といことがあったのではないでしょうか。聖書には、重い病に苦しんでいた十人の人がイエス様に癒していただいたという記事があります。そして、その記事には、癒されたことをイエス様のところに報告に来た人、癒された感謝を携えてイエス様のところに帰ってきたのは一人だけだったと書かれています。その人は、イエス様への感謝を携え、賛美と祈りを持ってイエス様の元に戻ってきました。彼は自分の願いをかなえてくださった方、という関係を超えてイエス様との新しい関係の中で生きるチャンスを見出しました。彼はイエス様の前に心の扉を開き、心にイエス様をお迎えしたのです。

イエス様は「12:43 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。12:44 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。12:45 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう」と話されました。

悪い時代、それは神様との関係、他者との関係を自分の利益、自分に役立つか役立たないかということで考える時代ではないでしょうか。自分の欲望や利益を満たすための道具としてしか神様や他者との関係を求めないのです。それは、自分の心をこの世の利益や自分の欲望に支配させているということです。そして、欲望に支配された心はいつも飢え乾き、空しくされてゆくでしょう。

だからこそ、心を開き、イエス様を迎え入れるものでありたいと願うのです。私のために十字架を背負って命まで与えてくださったイエス様の愛で心を満たしたい、そして、神への愛と隣人への愛を行うことを大切にする人生を歩むものでありたいと願うのです。

 

-祈り-

主なる神様、あなたの導きの中でここに呼び集められ、共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

主よ、あなたは私たちを愛し、イエス様を世に遣わしてくださいました。そして、イエス様の御業と言葉を持ってあなたが今も生きて働いておられる方であること、そして、あなたの愛が私たちに注がれていることを教えてくださいました。しかし、私たちは自分の願いや欲のためにあなたの愛を忘れ、隣人の大切さを忘れ、心を空しくしてしまうことがございます。主よ、あなたを見上げ、あなたの愛で心を満たしてください。そして、私たち一人一人に与えられているかけがえのない人生の大切さをお示しください。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン
ー聖書ー

汚れた霊が戻って来る

12:43 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。12:44 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。12:45 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」