聖書 マタイ福音書 13:1~9   宣教題 福音の種をまく   説教者 中田義直

市川大野教会では毎年2月に「東京バプテスト神学校を覚える日」の礼拝を守っています。神学校は牧師をはじめとする伝道者を養成する学校です。それと共に、東京バプテスト神学校は信徒の学びの場でもあります。東京バプテスト神学校は信徒のための学びの場としてスタートした神学校です。そして、そこにバプテストの特徴が表れているといえるのです。プロテスタント教会は「万人祭司」という主張を掲げましたが、バプテストは「万人祭司」という以上に「万人信徒」という考えを持っています。皆が祭司として教会の働きを担う、というのではなく、信徒が皆で教会の働きを担う、というのです。伝道者だから伝道するとか、祭司だから礼拝で奉仕をするというのではなく、信徒一人一人がそれぞれに与えられた個性やタラントを用いて奉仕を担い、伝道をします。そして、そのような教会の在り方を前提としつつ、伝道のため、教会奉仕のために自分のタラントを磨き、整えるための学びの場、として東京バプテスト神学校はスタートしたのです。

今、私たちの教会では伝道集会などのチラシの大半を折り込みにしています。その理由の一つは、時間と体力の厳しさという現実であり、もう一つはマンションなどの集合住宅でチラシを配布することの難しさがありました。伝道の方法も時代の中で変化します。また、教会での奉仕の仕方も変化が求められることがあります。しかし、方法は違っても伝道への熱意、祈りの大切さは変わりません。

さて、時代や地域の違いによって「当たり前」と思うことにも違いがあります。ある牧師さんが特別伝道集会で招かれた教会で今日の聖書の箇所を取り上げた時のことです。集会の後で、農業をなさっている教会員の方から「私たちはこんな種まきをしません」と言われたそうです。その方によれば、大切なのは土づくりで、まず良い土を作ることが大切だ、種は良い地にまくものなのでこの譬えに出てくるのは、素人だ、と言われたそうです。その牧師さんは、確かに、イエス様は大工だし、弟子たちも漁師はいたけれども農家の人はいなかったのかな、と思ったそうです。しかし、その後で調べてみたら当時のイスラエルではこのようなしかたで種がまかれていたそうなのです。まず、種をまき、それから土を耕して種と土を混ぜていく、そういう方法で農業を行っていたそうです。ところが変われば、ということでしょう。

ところで、私たちはこの譬えを読むときに(この後でイエス様の解説が出てきますが)自分の内面の状態がどのような場所なのか、良い地なのか、それとも茨だらけなのか、ということに関心が向かうことが多いのではないでしょうか。しかし、今日は「神学校を覚える日」ということもありますので、別の視点、種をまく側の視点でこの譬えを読んでみたいのです。この種まきの喩えで、種をまく人の種は良い地ばかりではなく硬い場所やいばらの生えているところにも種が転がっていくことを承知で種をまいています。それはとても雑な種まきかもしれません。良い地を選んで丁寧に種をまけば鳥に食べられる種も、日に焼かれてしまう種も少なくて済むでしょう。無駄のない種まきのほうが良いように思います。しかし、当時のイスラエルの種まきは種をまいた後で、地面を耕すという方法をとっていました。種をまいた人のそのあとの働きによって、硬い地面も良い地になる可能性があるのです。

これはこの譬えの正しい解釈とは言えないかもしれません。しかし、私たちは時としてここに種をまいても芽を出すことがないだろう、といって種をまかずに済ませてしまうことがあるのではないでしょうか。自分自身のことではなく、福音を語ろうとする相手の心に茨を見つけたり、硬い地面だと言って、種をまくことをやめてしまうということはないでしょうか。まかれた種が10年、20年、時には50年以上の時を経て芽を出し、花を咲かせるということが起こります。福音の種が、救いという花を咲かせるのです。

パウロは「3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(Ⅰコリント3章)と記しています。

神様の御力を信じ、私たちは福音の種をまきましょう。そして、耕し、水を注ぎ、神様の時を祈り求めてまいりましょう。良い地と思えない、人の心も神様の助けの中で良い地に変えられていく、その可能性を私たちは信じて、与えられている「私にできる福音の種まきを」をコツコツと行ってまいりましょう。

-祈り-

主なる神様、あなたの導きの中でここに呼び集められ、共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

主よ、あなたは私たちの心に福音の種をまき、その心を耕し救いという実りを与えてくださいました。最初に福音を聞いた時、私たちの心は良い地ではなかったかもしれません。しかし、あなたは人を通し、様々な出来事を通して私たちの心を良い地に変えてくださいました。主よ、あなたの福音の力、そして、聖霊の働きを信じて、種をまき続けることができますよう聖霊により、尽きぬ希望の光の中を歩ませてください。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

-聖書-

マタイ福音書 13:1~9

13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。13:2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。13:3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。13:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。13:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。13:7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。13:8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。13:9 耳のある者は聞きなさい。」