聖書 ヨハネ 12:20~26   宣教題 実を結ぶために  説教者 中田義直

今日は棕櫚の日曜日、イエス様が大きな苦しみを受けられた受難週の始まりです。ガリラヤで活動していたイエス様は、い癒やしの業や人々の心をとらえる教え、そして、律法学者たちとの論争にも負けることのない深い聖書の理解など、ユダヤ中から注目を集める時の人となっていました。イエス様の弟子たちをはじめ、人々はイエス様にイスラエルを救う新しい王という期待を持ちました。当時、ユダヤを治めていたヘロデ王はローマの傀儡でした。多くの税金が徴収されるという苦しみもありました。なによりも、ユダヤの人々が軽蔑していた異教徒に屈しているという苛立ちがありました。そのため、ユダヤの人々はヘロデに代わる新しい王を願っていたのです。ヘロデの一族はこのような民衆の気持ちを知っていました。ですから、イエス様が生まれた時、先代のヘロデ王はベツレヘム周辺の二歳以下の男の子と皆殺しにするという暴挙に出たのです。権力を持つものは、権力を持つことによってそれを失うことを恐れます。恐れる者が暴力をふるう、恐れがあるから暴力に頼るのです。

そして、民衆もまた力に頼ります。人々は、イエス様の力に頼りました。奇跡を行う力、癒しの力、また、言葉の力などイエス様は社会で弱くされている人たち、差別されている人たち、嘆いている人々を救うためにそれまで誰も見たことも経験したこともないような力をふるわれました。イエス様がそのような力ある方であることは事実です。そして、人々はイエス様がその力によってローマの支配から自分たちを解放する王となることを期待しました。

私たちはイエス様が救い主であることを知っています。そして、信じています。イエス様は救い主です。しかし、それはユダヤ人のためだけの救い主ではありません。全ての民を救うために、イエス様は世に来られたのです。

今日の聖書の個所は、棕櫚の日曜日、イエス様がエルサレムに入られたときの出来事が記されています。エルサレムには過ぎ越しの祭りの礼拝を捧げるためにたくさんの人々が集まっていました。そして、その中にはユダヤの人だけでなく、ギリシャ人もいました。そして、このギリシャ人がイエス様に会いたいと言ってきたのです。彼らはベトサイダ出身のフィリポにイエス様に会えるようにと頼みました。ベトサイダという街にはギリシャ人の住民が多かったと言われています。そのような背景から、ギリシャ語の堪能だったフィリポに仲介役を頼んだのでしょう。なぜ彼らがイエス様と会いたがったのか、その理由ははっきりとは記されていません。もし癒やしを願っていたのならそのように記されていたことでしょう。

そして、彼らがフィリポに仲介を頼んだのは、イエス様はギリシャ人である自分たちを受け入れてくださるだろうか、という不安があったからではないでしょうか。イエス様のことを知っている彼らでしたから、イエス様が取税人や異邦人、また、周囲から罪人と言われていた人とも分け隔てなく接しておられたことを知っていたことでしょう。しかし、それでもイエス様は受け入れてくださるだろうかと不安に思うほど、ユダヤ人と異邦人との間には根深い緊張関係があったといえるでしょう。その一方、ギリシャ人たちは神殿での礼拝での異邦人に対する差別のことをイエス様に訴えたかったのではないか、という説もあります。イエス様が神殿の庭から商売人たちを追い出した「宮清め」の出来事は、その背景に異邦人に対するイエス様の怒りがあったと言われています。異邦人は神殿の中に入ることは許されず、庭が彼らに許されていた神殿での礼拝の場所でした。つまり、異邦人の礼拝の場所が商売の場所になっていたことへのイエス様の怒りが宮清めという激しい行動の背景にはあるのです。ですから、過ぎ越しの祭りの礼拝を捧げるために神殿にやってきたギリシャ人たちが、イエス様に神殿での礼拝のことについて何か訴えたかったとも考えられます。

フィリポはこのギリシャ人たちの願いを聞いて、アンデレと共にイエス様に彼らの願いを伝えました。フィリポとアンデレを通してこのギリシャ人たちの願いを聞いたイエス様は、「人の子が栄光を受ける時が来た。12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」とおっしゃいました。日本語の訳では同じ言葉になっていますが、「自分の命」の命は魂とか霊とも訳される言葉です。一方、「永遠の命」の命は、生きているということ、生命をあらわす言葉が用いられているのです。つまり、「自分の命」というのは、自分の生き方と言えるでしょう。そして、当時、「種が死ぬ」ということは、種の殻が破られてもとの形を失うことをあらわす言葉として用いられていたのです。自分の生き方や価値観に執着し、殻を破ろうとしないことへの批判といえるでしょう。人を差別するという心も私たちが打ち破ることの困難な、からではないでしょうか。

ギリシャ人が話をしたいということを伝え聞いたイエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃいました。これは、ご自身の十字架と復活を示している言葉です。イエス様は今こそ、すべての人々のための救いを完成させる時だと言われているのです。

そして、イエス様は告別説教の最後で「16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と言われました。世に勝っている、とイエス様は言われます。一方、弟子たちをはじめ私たちは、この世で勝つことを望んでいます。この世の中で、この世という舞台の上で成功し、勝利し、幸せになりたいと願うのです。しかし、私たちは皆、いつかこの世を去らなければなりません。この世という舞台から降りなければならないのです。そしてその時私たちは、この世で得たものをそこに置いていかなければなりません。この世を離れたら、この世で得た富も、地位も、名誉も通用しません。ただ、私たちの命に注がれた愛、その愛を信じる信仰、そして、神の御国への希望だけを私たちはこの世を去るときに携えていけるのです。

ヘロデも、弟子たちも、そして群衆たちもこの世の中で、自分の殻の中に蓄えることを求めていました。この世で勝つことを、この世で勝利することを願い、そのためにヘロデは子どもたちを惨殺しました。弟子たちは、この世での敗北を感じイエス様のもとから逃げました。そして、この世で差別を受けていたギリシャ人はイエス様とお会いすることを願いました。そして、イエス様は異邦人もユダヤ人もなく、すべての人の救いのために十字架への道を歩んでくださったのです。

十字架は、この世の力に対する敗北のしるしです。属国の民にとって、ローマに敗北し、支配されていることを突き付けられる刑罰、それが十字架です。しかし、その敗北のしるしが世に対する勝利のしるしとなりました。イエス様の命はこの世の力によって奪われましたが、イエス様が私たちに注いでくださった愛、与えてくださった、信仰、そして、希望は滅ぼされることなく今も私たちに注がれています。ローマ帝国は歴史から消え失せましたが、キリストの愛、希望、信仰はこの世という殻を破り、今も私たちの心に豊かな実りを与えてくださっているのです。

 

ー祈り-

主なる神様、あなたに呼び集められ、共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

主よ、あなたの御子イエス様はわたしたちを神の子とするために十字架で血を流してくださいました。イエス様の死によって、私たちは今、永遠の命の恵みをいただいています。

私たちはこの世で勝利し、成功することを願います。しかし、あなたはこの世に勝利された方です。この世の人生を終えても、あなたの愛は私たちから離れません。この世を去るときにも決して希望は失われません。そして、イエス様を信じる信仰による関係も壊れることはありません。主よ、あなたからいただいたこの恵みを思い、感謝いたします。主よ、この喜びの知らせを伝えることができるよう、私たちに聖霊を注いでください。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

ー聖書ー

ヨハネ福音書 12:20~26

12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」