聖書 ローマ12:9~15 宣教題 共に喜び、共に泣く 説教者 中田義直
わたしたちは、主にある兄弟姉妹の愛をもって愛し合い、互いの喜びと悲しみを共に分けあいます。 (「教会の約束」より)
大学生のころ、教会という組織や秩序に窮屈さを感じ、人間関係のわずらわしさなどから「本当に教会は必要なのだろうか」と言っていたクリスチャンの知り合いがいました。彼は内村鑑三に傾倒し、無教会派の集まりに参加するようになりました。内村鑑三は無教会主義という主張をしたことで知られています。これは世界的にも知られ、日本独特のキリスト教の在り方という人もいます。この主張の背景には、既存の教会への失望があたともいわれます。また、天然(自然)そのものを教会のように感じていたともいわれます。そして、教会よりも直接的にキリストの十字架に結び付いていたいという思いもあったようです。一方、無教会の人たちは集会をもって聖書の学習をすることを本当に大切にしていました。集まり、集会は大切にしていたのです。私は友人と話しながら、組織や形は違うけれども、その交わりはやはり教会ではないだろうか、という思いを持ちました。
パウロの記した手紙の多くは、教会の中で起こった様々な問題が背景にありました。信仰の理解について、教会の中のメンバー同士の対立、経験の浅い若いリーダーの苦悩など様々な問題が聖書の時代の教会にありました。そして、そのような問題はいつの時代の教会にもありました。教会が政治的にも大きな力を持っていた時代や地域では、信仰に関する問題が戦争にまでつながることもありました。私たちクリスチャンは、救われた罪人です。そして、人間的ないろいろな問題や弱さを抱えています。人間が集まるところには様々な問題が生まれます。しかし、私たちは人と人との交わりや関係が大切なことも知っています。聖書は、人間には神様との交わりと隣人との交わりが大切だということを私たちに語りかけています。イエス様は十二使徒をはじめ、多くの弟子を集められました。イエス様はそのような交わりを大切にしておられます。そして、私たちもまたこの教会の交わりを大切にしています。
バプテスト教会は、神様から託されている教会の働きを一部の専門家に任すのではなく教会の皆で担うことを大切にしてきました。そして、皆で神様の働きを担おうと約束を交わしました。「教会の約束」には、そのようなバプテストの歴史的な背景があります。教会は人間の集まりです。ですから、教会は人間の弱さから逃れることはできません。そのような現実の中で、聖書のみことばに学びながら神様の御心に応えていきたいという思いをもって、聖書の時代から教会は歩んできました。そして、その一つのチャレンジとして私たちは皆で教会の働きを担うという選び取りをしました。多くの教会、そして、教派はそのようにして祈りの中で、この世にあって具体的な教会として歩んでいます。
教会は私たちにとって、どのような交わりなのか。そして、私たちはどのような教会を目指そうとしているのか、その思いがこの「教会の約束」に示されています。「わたしたちは、主にある兄弟姉妹の愛をもって愛し合い、互いの喜びと悲しみを共に分けあいます」と私たちはこの約束の言葉を四か月に一度、主の晩餐の時に読み交わしています。この「教会の約束」の言葉と同様な言葉をパウロはローマの信徒の手紙に記しています。「12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。12:11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。12:12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。12:13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」パウロはローマの手紙の12章以降にクリスチャンとして生きていくために大切なことを記しています。そこでまず記しているのは、ともに礼拝するということです。そして、そこでパウロは一人一人思い上がるようなことをせず、互いに互いを大切な存在としていくことを勧めています。
聖書、特に新約にしるされている、私たちに対する勧めの言葉を受け止めるとき忘れてならないことがあります。それは、その勧めは私たちが神の民となるための条件ではないということです。なぜなら、私たちはすでにイエス様の十字架と復活を通して、神の民として招かれているからです。そして、神様は私を愛し、私を神の民として招いてくださっているのと同様に私の隣にいる人も愛し、神の民として招いてくださっているのです。
私たちの愛はどうしても条件付きの愛にとどまってしまうことがあります。愛する価値が見いだせるから愛し、愛する価値を見出せなければ愛せなくなってしまうことがあります。親子だから、家族だからと無条件に愛するということができなくなることがあります。自分のことも同様です。ですから、私たちは、価値があるから愛されていると思っています。しかし、イエス様が示してくださったことは、それては異なることでした。価値の後に愛があるのではなく、愛が先立っていることをイエス様は教えてくださいました。
私たちは、愛されていることに気づくときに、自分の価値に気づくことがあります。愛されていることを通して、自分の価値を見出すことがあるのです。互いに愛し合うこと、それは、神様に愛されていることを互いに確認しあうことです。
教会に託されている伝道、それは、神様を信じたら神様に愛されますよということを伝えるのではありません。その逆です。あなたは神様に愛されている、あなたは神様にとって大切なかけがえのない存在なのですよということを伝えること、それが私たちに託されている福音伝道、良い知らせを伝えることなのです。そして、「喜ぶ人共に喜び、泣く人と共に泣く」、それは、その人の心に寄り添うことです。そして、それは、イエス様の心に寄り添うことでもあるのです。「喜ぶ人共に喜び、泣く人と共に泣く」、それは、喜ぶ人の慶びを喜んでおられるイエス様の思いを受け止め、悲しんでいる人のために泣いておられるイエス様の涙を見つめることでもあるのですから。
ー祈り-
主なる神様、あなたに呼び集められ、共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。
主よ、あなたの私たちを救い、神の民としてくださいました。そして、このようにあって神の民として生きてゆくために、そして、福音を告げ広めるために教会という交わりをお与えくださいました。この交わりの中で、私たちは励ましを受け、支えられています。どうぞ私たちが主にあって、喜ぶものとともに喜び、泣くものと共に泣くことができるような感銘を築いてゆくことができますように。そして、悲しむ者の悲しみを共に担ってくださるイエス様に倣うことができまうようにお導きください。
この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン
ー聖書-
ローマの信徒への手紙12章9節~15節