聖書 マタイ 13:24~43 宣教題 神のなさること 説教者 中田義直
イエス様は人々に喩えを用いてお話になりました。たとえ話というのは物事をわかりやすく伝えるために用いられますが、イエス様は時としてわかりにくく話をされることがありました。そのことについて弟子から尋ねられた時、イエス様は「13:11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」とお答えになりました。そしてそれは、「人々は理解することがない」というイザヤの予言の成就であるとイエス様は語られているのです。理解すること、わかることは大切です。しかし、その一方で「論語読みの論語知らず」という言葉のように、人は理解し、わかっていても生き方が変わらないということがあります。人の生き方を変えるのは、理解ではなく気づきだと言われることがあります。弟子たちは、イエス様から喩えの説明を受けています。彼らはイエス様と寝食を共にし、多くのことを学んだことでしょう。しかし、イエス様は弟子たちがなかなか悟らないことを嘆いておられます。彼らが本当にイエス様のおっしゃったことを理解し、そこに示された真理に気づき、生き方が変えられていったのは、イエス様の十字架の死と復活のイエス様と出会った後でした。
そして、今、この時代を生きている私たちが神様のみ心を正しく理解し、その御心に従って歩み出すためには、聖霊の導きが必要です。パウロが「また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」と記しているように、私たちは聖霊の導きの中で復活のイエス様と出会い、パウロがそうであったように十字架に示されている神様の愛に気づくからです。ですから、私たちが聖書を学ぶときに最も必要なことは、聖霊の導きを祈り求めることと言えるでしょう。祈らなくても、知識や教訓として聖書の言葉を味わい、受け止めることはできるでしょう。しかし、神様の御心に従って生きようとするとき、私たちには聖霊の導きが必要です。
今日の聖書箇所でイエス様は譬えを用いて天国のことを話しておられます。マタイ福音書に記されている「天国」と他の福音書に記されている「神の国」は同じ意味ですが、どちらも原語で「国」という言葉の持っている意味は、領土、領域という空間的な広がりを示す言葉であると同時に、支配していることを示す言葉なのです。ですから、天国、神の国というのは神の支配しているところという意味であり、さらに丁寧に言えば、神様が良いと思われることが実現しているところ、ということができるのです。イエス様は「天の国は次のようにたとえられる」とおっしゃっていますが、それは、「神様が良いと思うことが実現しているのはこのようなところだよ」と言い換えることができるのです。
イエス様はこのように話されました。「ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
ここで主人は神様のことです。敵が来て毒麦が蒔かれてしまった畑で、主人は何をしたのでしょうか。主人は毒麦が蒔かれてしまったということで、慌てふためいている僕たちに対して、慌てて毒麦を抜こうとせず収穫の時まで待ちなさいと言っています。これが主人の僕たちに対する指示です。36節以下にはこの譬えの説明が記されていますが、そこに示されているように、毒麦は神様に反する者たちであり、そのような者たちは刈り取られて火にくべられるという、神の裁きをこの譬えは示しています。そして、それと同時にここで主人が僕たちに指示しているように、神の時が来るまで毒麦も良い麦もそのままにしておくこと、それが、神様の御心であることを私たちは忘れてはならないでしょう。
パウロは「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(ローマ12:14)と記しました。また、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります」(12:19)とも記しています。呪い、復讐、そして、裁きは神様のなさることなのです。私たちの正義は不完全です。旧約聖書のコヘレトの言葉7章16節にこうあります「善人すぎるな、賢すぎるな/どうして滅びてよかろう」この「善人すぎるな」という箇所を新改訳聖書では「正しすぎてはならない」と訳しています。これは自分の正しさを過大に評価してはならない、自分の正しさ、正義を絶対視してはならない、という意味だと言われています。ファリサイ派の人々や律法学者たちは彼らの聖書解釈によって人々をさばいていました。しかし、彼らが姦淫の場で捕らえられた女をどうするべきかとイエス様に問うた時、イエス様は「罪を犯したことのないものから石を投げなさい」と言われました。そして、そこにいた人々は石を投げることなく、年長者からその場を立ち去っていったというのです。彼らは正しすぎずにすみました。自分の正義を振りかざして、もしかしたら良い麦かもしれない「麦」をつみ取らずにすんだのです。
イエス様はここでもう一つ、天国の譬えを語っておられます。天の支配、神様の支配は私たちの知らない間に成長しているという辛子種の譬え、そして、パン種のたとえです。私たちの目に神様に裁かれるに違いないと思える人の心の中にも、辛子だねひと粒の信仰が与えられたなら、私たちの知らない間にその種は大きく育ち良い実りももたらすものへと変えられていくかもしれません。パウロもそのような一人です。そして、私たちもそのようにして救いにあずかるものとなりました。
裁きは神様のなさることなのです。
神様が私たちに託しておられるのは人を裁くことではなく、神の救いを伝えることなのですから。
ー祈り-
主なる神様、あなたに呼び集められ、共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。
主よ、私たちは誤り多いものです。正しくありたいと願い、正しさを求めますが私たちに見えているのはすべての事の一部分に過ぎません。私たちは悪を行う者たちが裁かれることを願います。しかし、魂の裁きと救いはあなたがなさることです。主よ、私たちが正しく行きたいと願うとき、また、自分を正しいと思うとき、人としての限界を超えて人を裁く事のないようにお導きください。そして、私たちに託されている、イエス様の福音、ゆるしの知らせを伝えることをおろそかにしないようお導きください。私たちがあなたから託されているのなすべきことを行うことができますよう。聖霊の助けをお与えください。
この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン
ー聖書ー
マタイによる福音書13章24節~43節
13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。13:26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
13:34 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。13:35 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
13:36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。13:37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、13:38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。13:41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、13:42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。13:43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」