聖書 マタイ 13:44~52   宣教題 恵みの約束  説教者 中田義直

 

教会の墓地が完成しました。今日の午後、最初の墓前礼拝を行います。教会墓地がありますのは、我孫子市のラザロ霊園という日本でも珍しいキリスト教の霊園です。教会の墓地ばかりでなく、クリスチャンの方の個人の墓地もあります。そして、ほとんどの墓石に聖書の言葉や信仰の言葉が記されています。その言葉の一つ一つを読んでいますとこの場所は人生の終着点ではなく、やがて訪れる再会の日を思う希望を確認する場所のように思えてきます。

私たちは死から逃れることはできません。そして、死によってもたらされる「別れ」は本当に辛く悲しいものです。しかし、私たちの救い主、イエス・キリストはご自身の復活を通してこの別れの悲しみの先にある再会の希望を私たちに与えてくださいました。そして、それこそが私たちに与えられている「恵」です。死別を超えて再会することができる、それは、自分に言い聞かせたからと言って受け入れることのできるものではないでしょう。私たちが、この再会を信じることができるのは、それがイエス・キリストを通して神様が与えてくださった「恵の約束」だからです。

ところで、イエス様は天の国について譬えを持って語られました。そこで語られているのは、この世とは異なる神の国の価値観であり、神の国がどれほど私たちにとって価値のあるものかということです。例えば、ぶどう園の労働者の譬えという天国についてイエス様が話された譬えがありますが、そこでは、私たちの今生きている世界とは異なる価値観が示されています。つまり、イエス様は天国というのはこういう価値観で動いているところなのだよ、ということを示しておられます。そして、今日の箇所では天の国そのものの価値をイエス様は語っておられます。

天の国の価値、それは、すべての持ち物を売り払っても手に入れたいと思うほどの価値だということをこの譬えは示しています。そして、良いものと悪いものとが選り分けられるというたとえは、悪い者たちへの神の裁きを示唆していますが、それと共に神の国へ入ることのできなかった者の絶望感を示していると言えるでしょう。この譬えの中でイエス様は「商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」と記しています。この商人は、真珠の価値のわかる人です。そして、価値がわかるからこそ、この商人は持ち物をすっかり売り払うという決断をすることができたのです。そして、天の国はそれほどの価値あるものだとイエス様は言われるのです。しかし、価値がわからないものはそれを手に入れようとは思わないでしょう。そして、その価値が明らかになった時、自分はなんと大切なことの気づかなかったのだろうか、何故素晴らしい物を手に入れるチャンスをみすみす逃してしまったのかと嘆き、歯ぎしりをして悔しがることでしょう。

イエス様はこうお話になりました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 」(ヨハネ3:16〜19)価値あるものの価値に気づかず、それを、遠ざけてしまったら。その時には気づいていなくても、それはすでに裁きになっている、やがて味わうであろう嘆き、後悔がすでに始まっているのです。

イエス様はここでもうひとつ、天の国についてお話になりました。それは、「 『あなたがたは、これらのことがみな分かったか。』弟子たちは、『分かりました』と言った。そこで、イエスは言われた。『だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている』」という言葉です。この主人は新しいものと古いもの倉から取り出します。倉から取り出すというのは、それを用いるためでしょう。そして、この学者というのは、律法学者、つまり聖書を深く学んでいる人を指しています。かつて、ユダ王国のヨシュア王の時代に申命記改革という出来事がありました。それは、神殿の中から「申命記」、律法の書が発見されたのです。そして、そこに記されている神様が望まないこと、してはならないということが国の中であふれていたこと、神殿や王宮の中でもそのようなことが行われていたのです。ヨシュア王は発見された律法の書の教えに従って王宮や神殿、そして国の中を改革していきました。神様の言葉は、神殿の奥に大事にしまっておくものではなく、私たちがそれに従って、また、それに応えて生きるために与えられているのです。天の国のことを学んだ学者は、神様の言葉を倉から取り出します。新しいものも古いものも取り出して、神様のみ心、思いがどこにあるかを祈り求めて、神様のみ心に答えて生きようとするのです。

エフェソの信徒への手紙から二箇所お読みいたします。

 

1章17〜18 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。

 

2章1〜10 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

 

死を逃れることのできない私たちに、死を超える再会と平安の希望が与えられました。この世の何ものを持ってしても手に入れることのできない、この救いと希望を神様は私たちへの賜物、プレゼントとして与えてくださいました。この恵の約束を私たちは、信じ、恵への感謝を持って歩んでいくのです。

 

ー祈り-

主なる神様、あなたに呼び集められ、共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

主よ、私たちは皆、全て、死の時を迎えます。死から逃れることのできる人は誰もいません。そして、その別れは本当に辛く悲しいものです。しかし、あなたはこの死の先に希望のあることを私たちに教えてくださいました。私たちはあなたから与えられた恵、朽ちることのない命を信じます。そして、この恵の約束を信じ、先に召された方々との再会の希望を持って歩んでまいります。

主よ、どうぞあなたの慰めと希望により、私たちの内なる霊を支え、身許にゆく日までお導きください。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書ー

13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。13:47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。13:49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、13:50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

13:51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。

13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」