聖書 エフェソ 6:18~20 宣教題 祈り 説教者 中田義直
私の通っていた高校には、キリスト教のスタイルをベースとした宗教の時間がありました。そこで、カトリックの神学校を出た先生が、なぜ自分は信仰を持つようになったのか、ということを話してくださいました。その先生はある夏の日、学校のクラブ活動飛び込み台の上からプールに飛び降りなければならないことになったそうです。今なら、体罰といわれるかもしれませんが、怖くて飛び込めないでいたところえ、指導の先生にお尻をけ飛ばされてプールに飛び込んだというのです。その時、思わず「神様」と叫んでしまったというのです。それまで、信じたこともなかったのに死ぬかもしれないという恐怖の中で「神様」と叫んでしまったことを通して、自分の中のどこかで神様とのつながりがあるのではないか、と考えて教会の門をくぐったというのです。イエス様は世に来られ、神様がいつも私たちと共にいてくださるということを教えてくださいました。そのような深い神様とのつながりに気づくようにと、イエス様は人々に語りかけてくださいました。
また、神様とのつながりは、造り主と作られたものというつながりでもあります。そして、キリスト教の信仰は、神様は私たちの造り主であり、その作品である私たちを愛していてくださるということを信じるということでもあります。
ところで、私たちがささげる礼拝は、神様に心を向けることといっても良いでしょう。それは、神様とのつながりを確認する時間、といってもよいでしょう。「教会の約束」に「主の日の礼拝、そのほか教会の諸集会につとめて出席し、教会の交わりのきよくなること、栄えることを祈ります」とあります。このように「教会の約束」では、主の日の礼拝や教会の諸種会に出席する目的を「教会の交わりのきよくなること、栄えることを祈ります」としています。つまり、主の日の礼拝や教会の諸集会に参加する目的を「祈り」に置いているのです。「祈り」は神様との対話です。ですから、祈りというのは、神様とのつながりを確認する具体的な行為といえるでしょう。そして、祈るということは、願うということと重なる部分があります。自分の思い、自分の願いを神様に伝えることだからです。しかし、それは一方的に願うことだけではありません。自分の願いを神様に伝えるとともに、神様の御心を求めること、それが祈りです。心を神様に向け、神様をたたえ、祈りをささげ、聖書のみことばに耳を傾ける。このような礼拝のプログラムというのは、礼拝全体が一つの祈りの時ということができるでしょう。
ところで、私たちは一人一人、異なった価値観を持ち、それゆえに異なった願いを持っています。一人一人、異なった個性を持ち、時には互いの違いに驚いたり、理解できないと思ったり、感情的な思いを抱いてしまうような異なったものたちが、一人の方に心を向けているのです。そして、この異なった者の集う交わりが、きよくなること、栄えることを共に祈るのです。一方、私たち人間にとって、自分と異なるものを受け入れるというのは容易なことではありません。私たちは、異なった者たちと共に一人の方を見上げ、礼拝するために祈りを必要とするのではないでしょうか。それは、いわゆるヒューマニズムではなく、神様の作品として自分とは異なる他者を受け入れることだからです。
パウロは手紙の中で、たびたび私のために祈ってほしいと書いています。福音を伝えるために祈ってほしいとパウロは願っています。パウロは、コリントの手紙に「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と記しています。これは、十字架の言葉、つまり福音を信じないものにとってそれは、愚かなものであり、無価値なものだと言っているのです。ですから、福音を伝えるということは、それを聞く人の価値観とは全く異なる価値観を伝えるということなのです。異なる価値観を伝えるためには祈りが必要だ、ということをパウロは知っています。聖霊によらなければ、神様の働きかけなくしては、人は福音を受け入れることはできません。そして、パウロが祈りを求めている理由には、「どうせこの人たちには伝わらないだろう」という考えにとらえられないように、という願いがあるように思うのです。霊的な戦い、それは、神様の力を信じぬくという戦いです。み言葉の力を信じるという戦いです。そして、福音は必ず人を変え、人を救うをいう希望を捨てないという戦い、それが霊的な戦いではないでしょうか。
「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」
私たちは、礼拝に集い、教会に集い、共に祈ります。そして、神様が共にいてくださり、日々私たちを助け、支え導いていて下さることを互いに確かめ合いつつ、この世にあって、福音に生かされ、福音を携えてキリストにある道を歩み続けてい行くのです
ー祈り-
主なる神様、あなたに呼び集められ、共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。
主よ、あなたは私たちに「祈り」を与えてくださいました。私たちは祈りを通して、あなたとの霊的な交わりを持つことができます。あなたとの「祈りの交わり」は自分の思いや願い、時には感情もあなたに伝えることができます。
そして、私たちはともに祈ることを通して、互いに支えあい、受け入れあうことができる恵みを与えられています。どうか、私たちが日々祈りを大切にし、あなたと隣人との交わりを大切にしつつ生きることができますよう、聖霊の導きをお与えください。
この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン
聖書 エフェソの信徒への手紙 6章18節~20節
6:18 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。6:19 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。6:20 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。