聖書 ヨハネ 1:9    宣教題 すべての人を照らす光  説教者 中田義直

 

 私たちクリスチャンにとって、クリスマスは大きな喜びの日です。それは私たちを罪から救う救い主、イエス・キリストの誕生を祝う日だからです。聖書はイエス・キリストを「光」に譬えてこう記しています。「1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。イエス・キリストは全ての人を照らす光です。

 私たちは、光がなければ何も見ることはできません。光が当たると、それまで見えなかったものが見えるようになります。そして、聖書にはこのような言葉も記されています。「3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」。私たちには、知られたくない「思い」や「行い」があるでしょう。知られたくない欠点があり、弱さを私たちは持っています。そして、闇はその弱さや欠点を隠してくれることがあります。だから、人は光よりも闇を好むと聖書に記されているのです。

 私たちは、認めたくない自分のことを知っています。また、なりたくてなれない憧れの姿、なろうとしたけれどもなれない自分の現実を知っています。光に照らし出されたくないのは、悪いところや欠点だけでなく、いえ、むしろ認めたくない自分の姿、なろうとしてなれない自分の現実こそ闇で覆いたいと願っているのではないでしょうか。しかし、その一方で、私たちはそのような自分を受け入れてほしいと願っているのではないでしょうか。

 イエス・キリストという光に照らされる時、私たちは神の前に罪深く、欠点ばかりの自分の姿を知らされるでしょう。光が明るければ明るいほど、それによってできる影は濃くなるからです。しかし、その光は私たちの罪を明らかにするだけではありません。その光は私たちをつつみ、やがて、黒い影は消え去ります。なぜなら、その光は罪人さえ愛する、神の愛の光だからです。そして、その光は決して消えることの無い希望の光なのです。

 私たちを包む闇、そして、誰もが必ず直面する闇が「死」でありましょう。死は忌み嫌われ縁起でもないと言ってできるだけ避けようとされてきました。それほどに死は大きな闇なのです。しかし、終活という言葉が語られるようになってまで十年にもなりませんが、それでも、多くの人が死を見つめることができるようになってきました。イエス・キリストは、ご自身の死と復活を通して、死は終わりではないということを私たちに教えてくれました。私たちの人生は、死という闇に飲み込まれて終わるのではなく、永遠の命という希望の光に包まれ、死を通して新しい命の始まりへと招かれているのです。

 私たちクリスチャンがクリスマスを祝うのは、希望の光が与えられたからなのです。クリスマスツリーとして飾られるもみの木も、丸い形をしたリースも永遠の命のシンボルです。

 そして、死という闇を打ち破った希望の光で照らされる時、私たちは神様にどれほど愛されているかということに気づくでしょう。私たちの弱さ、欠けを超えて注がれる愛がそこにあります。自分では愛せない「私の現実」さえ神様の愛はつつんでくださいます。私たちは、この愛を伝えてくださった神の御子、イエス・キリストの誕生を喜び祝うのです。

 

ー祈り-

 主なる神様、クリスマスイブの夕べ、こうして共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

 主よ、あなたは私たちに愛を伝えるために、そして、希望の光で私たちを照らすために御子イエス・キリストを世にお遣わし下さいました。

 私たちは、あなたの御子、イエス・キリストをとおして、あなたの愛を知る者となりました。そして、闇に打ち勝つ希望の光で私たちを照らしてくださいました。

 主よ、私たちは、御子の誕生を心から感謝し、喜びをもってあなたを賛美いたします。主よ、私たちの捧げます悔い改めと感謝の祈りを受け入れてください。

  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

ー聖書- ヨハネによる福音書 1章9節

1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。