聖書 マタイ 17:14~20    宣教題 からし種一粒の信仰   説教者 中田義直

 

 私たちクリスチャンはイエス・キリストに対する信仰を持っています。イエス様を信じています。しかし、私たちは時おり自分の信仰に自信が持てなくなるときがあります。小説や映画などで、クリスチャンに対する厳しい迫害が描かれていたりすると「自分はこんなに苦しめられても信仰を持ち続けることができるだろうか」と不安になります。また、聖書の言葉によって自分自身の信仰が不安になることがあります。今日のイエス様の言葉も私たちにとって、自分自身の信仰が確かなものなのかを不安にさせる言葉ではないでしょうか。

 ここに記されている出来事、それは、てんかんで苦しんでいる子どもを癒やすことができなかった弟子たちに対するイエス様の叱責の言葉です。子どもを癒やすことのできなかった弟子たち、悪霊を追い出すことのできなかった弟子たちに対してイエス様は彼らの不信仰を指摘します。そればかりか「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」と言われました。これでは「何かできないことがあるなら、それは、あなたの信仰が薄いからだ」とおっしゃっているようにも聞こえます。

 私たちにはできないことがあります。できなくても気にも留めずに過ごすことのできることもあれば、できるようにと必死に努力してもできないことがあります。人間が成長するというのは、できることが増えることだけではなく自分にはできないことがある、という現実を受け入れることでもあります。努力すれば、心を鍛えれば、どんなことでも克服できるというのなら、それはいかがわしい自己啓発セミナーのようなものではないでしょうか。また、「信じればできる」と言って人を勧誘し、できないとなると「あなたの信仰が足りないからだ」とその人の人格を攻撃するカルト宗教のようにも思えてしまいます。

 イエス様はてんかんで苦しんでいる子どもの父親から「弟子たちに頼んだけれども癒やせなかった」と聞いた時「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい」とおっしゃいました。イエス様はご自分の死の時が近づいてきていること、弟子たちを分かれなければならなくなるということを知っておられました。ですからこのようにおっしゃったのでしょう。それではこの言葉は「私がいなくなるのに、自分たちで癒やせるようにまだなっていないのか」という意味なのでしょうか。そのように解釈することもできるでしょう。しかし、ここでイエス様が嘆かれているのは、弟子たちが大切なことを未だに理解していない、ということを嘆いているように思えるのです。

 弟子たちは、子どもを癒やすことができなかったときその子をイエス様のところに連れていこうしなかったのではないでしょうか。彼らは自分たちの力で、子どもを癒やそうとしていたのではないでしょうか。イエス様は、男だけで五千人という群衆たちに糧をお与えになるとき、手元にあったわずかな量の魚とパンを取って、神様に感謝の祈りを捧げられました。神様の助けと導きの中でとてもできないということが可能になるということをイエス様は示されました。神様の祝福をいただいて、イエス様は群衆たちは空腹を満たされました。

 信仰は、神様の前に自分の力の限界を受け入れること、自分の正しさの限界を受け入れることに始まります。弟子たちは、どのようにして癒やそうとしたのでしょうか。イエスさまに成り代わって、自分の力で癒やそうとしたのではないでしょうか。信仰は、神様の約束を信じ、神様に委ねてゆくことです。完全な人になることではなく、不完全であることを認め、それゆえに神様の助けを祈り求めること、それが信仰です。自分たちの力でできないとわかったとき、彼らはその事実を受け入れてこの子をイエス様のもとに連れてくるべきだったのではないでしょうか。彼らはイエス様に頼ることができたのですから。弟子たちにすべきことは、自分の力でできるかどうかではなく、何よりもまず苦しんでいる子どもと父親のために何ができるかを考えることだったのです。

 イエス様を信じ、イエス様に頼り、イエス様の導きを求めつつ歩むこと、その歩みの先に神様は最善を用意していてくださるのですから。

 

ー祈り-

 主なる神様、こうして共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

 主よ、あなたは私たちを愛し、助け、最善へと導いてくださいます。しかし主よ、私たちは時として自分の力に頼り、自分のプライドにとらわれてあなたに助けを求めることを忘れてしまうことがございます。

 日々の歩みの中で、そして、自分ではどうしようもない困難に直面するとき、真っ先にあなたにより頼む「信仰」をお与えください。「神様にはできないことはない」その方に頼るからこそ、私たちは自分の力では乗り越えられない試練に出会う時でさえ、希望をもって歩むことができるですから。主よ、どうぞ、あなたを信じ、あなたにより頼みつつ歩むことができますよう聖霊の助けをお与えください。 

  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書-  マタイによる福音書17章14節~20節

17:14 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、17:15 言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。17:16 お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」17:17 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」17:18 そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」