「罪と弱さ」があらわにされる時          牧師 中田義直

今日から受難週です。凱旋する王を迎えるような人々の歓呼の声の中、イエス様はエルサレムに入城なさいました。ところがわずか五日後の金曜日、イエス様は十字架にかけられ、殺されてしまうのです。
イエス様は捕らえられ、ユダヤの祭司たちによって形式的な裁判にかけられた後、イスラエル地方を治めていたローマの総督ピラトのもとに連れていかれます。祭司たちは、イエスは死罪に値すると言ってピラトに引き渡したのです。しかし、ピラトは祭司たちの訴えがイエスさに対する妬みによるものだとわかっていました。そして、ピラトはイエス様を取り調べ無罪であると確信します。ところがピラトは、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆たちの声に押されて、イエス様を十字架につけてしまうのです。
属国に対して絶対的な権限を持っていたピラトでしたが、ローマ帝国の中では皇帝に仕える役人の一人にすぎません。属国を治める総督にとって最も大切な任務は、属国で反ローマ運動やそれにつながる暴動などが起きないようにすることでした。軍事力を含め、そのためには手段を選ぶことはありませんでした。ですから、暴動や騒ぎが起きるよりも罪のない一人の人を殺す方が得策とピラトは判断したのでしょう。
イエス様の受難の出来事を通して、地位や権力の有無にかかわらず人間は罪深く弱い者である、ということがあらわにされていくのです。