聖書 マタイ 18:6~9    宣教題 命にあずかる者   説教者 中田義直

 

天のみ国、それは私たちにとって希望であり、慰め、そして、救いによって与えられる恵みです。私たちは必ず死の時を迎えます。そこから逃れることはできません。そして、死によってもたらされる断絶、別れは私たちの心を苦しめ、悲しみで覆います。そのような悲しみや苦しみの中に置かれる時にも、イエス・キリストの与えてくださった天のみ国は希望は私たちの心に慰めを与えてくれるでしょう。人は必ずこの地上の旅を終える時が来る、だからその時には天国に行きたいと願うのではないでしょうか。イエス様のもとにやってきた金持ちの青年は「どうしたら永遠の命を得られるでしょか」とイエス様に尋ねました。この時のイエス様の言葉は永遠の命を得ることは、神の国、つまり天国に入ることだということが示されています。

また、イエス様の弟子たちは、、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」とイエス様に質問しました。それに対してイエス様は子どもを彼らの前に立たせて。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」とお答えになりました。

そして、その答えに続けて語られた言葉が、今日の聖書の個所の言葉です。イエス様はいわれています。「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。18:7 世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。18:8 もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。18:9 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」

とても恐ろしく感じられる言葉ではないでしょうか。そして、こんなことを言われたらいったい誰が命にあずかるものになれるのか、誰が天のみ国に入れるだろうかと思ってしまうのではないでしょうか。天国に入るにはこんなにも厳しい条件があるのか、と考えてしまうのではないでしょうか。確かにこのイエス様の言葉は厳しく、私たちの心に恐れを抱かせます。

ところで、この言葉はイエス様が弟子たちに語っている言葉です。イエス様の弟子たちは、誰が天の国で一番偉いのか、という質問をしました。ところで、このようにイエス様に質問をした弟子たちは「自分たちは天の国に入ることができる」ということを前提としているのではないでしょうか。そのように考えている彼らの常識の中には、天の国に入ることのできない人々の存在がありました。それは罪人であり、神の罰を受けている人々です。弟子たちは生まれつき目の不自由な人を見てイエス様に「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねました。生まれつき目が見えないのは「罪の結果だ」と彼らは考えていました。体に不自由を負っていること、また病を負っていることなどを「罪の結果」と考えるのは彼らだけではないでしょう。そして、それが当時の彼らの常識、宗教的な常識でした。ですから、片手を失った人、片足を失った人、片方の目を失った人は罪の結果としてそのような状態である、というのが彼らの常識でした。この常識に対して「両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい」「両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい」というイエス様の言葉はそのような「罪」にまつわる常識を覆します。つまり、両手が揃っているかいないかということや両方の目がそろっているかいないということは、天のみ国に入ることには関係のないことだとおっしゃっているのです。私たちを天の御国に導くのは、ただイエス様の「恵みのみ」なのです。

小さなものを躓かせるということ、それは、どのようなことであれ、あの人は罪の結果あのような状態になったのだ、とか、あんな仕事をしているのは神にのろわれているからだとか、

あの人が貧しいのは神に見捨てられているかだ、などとレッテルを貼ることです。だからあなたは天国には行けない、と御国に至る道に障害物を置いて邪魔をすること、それが躓かせることなのです。

「命にあずかるもの」は誰でしょうか。それは、命を与えてくださる方を知っているものです。イエス様のこの厳しい教え、それは、厳しさの中で命に至る道を示している言葉なのです。そして、イエス様は私たちに命を与え、私たちを命の道へと導くために世に来てくださいました。命を与えてくださる方の導きに委ね、神のみ国に至る道であり、真理であるキリストの後を歩む人、それが「命にあずかるもの」なのです。

 

ー祈り-

主なる神様、こうして共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

主よ、あなたは御子イエス様を世に遣わし、私たちを罪から贖い命を与えてくださいました。私たちは皆、あなたの前に不完全な者です。そして、時として私たちは自らの不完全さを忘れ、他の人の不完全さを見下したり、裁いてしまいます。あなたが愛し、あなたが大切に思っている私の隣人に対しても、人の目に見えるところでレッテルを張ってしまうことがあります。あなたの愛は完全な愛ですから、不完全な私たちはそれを受け止め切れないことがあります。命を与えてくださる方を信じ、命にあずかる者として歩む私たちでありますように。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書ー マタイによる福音書 18章6節~9節

18:6 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。18:7 世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。18:8 もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。18:9 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」