聖書 マタイ 18:15~20     宣教題 命にあずかるために  牧師 中田義直

 

 イエス・キリストの復活、それは、多くの人々に希望を与える出来事でした。まず、イエスの弟子たちは復活を通して大きな希望を与えられえました。イエス様の十字架刑という出来事と直面した弟子たちは、深い絶望の中にいました。しかし、彼らは復活のイエス様に出会い、再び立ち上がることができました。彼らは大きな勇気と力を与えられ、自分たちの願いをかなえるのはこの時だと考えました。しかし、そのような弟子たちにイエス様は聖霊が下るまでエルサレムで待ちなさいと命じられたのです。そして、ペンテコステの日、弟子たちに聖霊が降り、彼らはイエス様の福音を大胆に語り始めました。

 教会はギリシャ語でエクレシアといいますが、これは「呼び集められた者たちの集まり」という意味です。ですから、会堂を指すのでもなく、整った組織があることが教会の正しい姿でもありません。新約聖書時代の教会はいろいろな意味で途上にありました。信仰の理解についての幅もあり、組織についても非常に素朴なものでした。しかし、ただ一点、「私たちは神によって呼び集められた集まりなのだ」という理解は共通していました。そのような意味で、イエス様の弟子たちもまた「主によって呼び集められた者たち」の集まりでした。彼らは皆、イエス様の呼びかけに答えて、イエス様に従ったのです。

 教会は神様によって呼び集められた者たちの集まりです。しかし、イエス様の弟子たちにみられるように、人間は弱いものであり、多くの不完全さを持っています。弟子たちの間にいさかいがあり、ほかの弟子よりも偉くなりたいと考えたり、出し抜てやろうと考えるようなものもいました。イエス様はそんな弟子たちのことを思い、誤った歩みをした仲間に対してどのように接していくべきかを示されました。

 ここには本当に大切なことが示されているでしょう。二人、三人の証人というのは律法にも示されているものです。そして、ここで教会とあるのは権威を持った特定のリーダーというよりも、皆の言葉に従わなかった場合ということでしょう。そして、そのようなものは取税人や異邦人同様に見なしなさいとイエス様はおっしゃっています。一見すると、教会の外に追いやって、関係を断つというようにも読めるかもしれません。しかし、この言葉を語られたイエス様はご自分から、異邦人や徴税人たちの中に入っていきました。この記述はマタイ福音書だけにみられますが、このマタイはよく知られているように徴税人でした。そして、彼は収税所の前に座っていた時に、イエス様から直接声をかけられて、立ち上がって従いました。マタイはイエス様が当時罪人と呼ばれていた徴税人や異邦人を招いていた方であることを身をもって知っていました。このイエス様の教えを聞いて、ほかの弟子たちが「教会の交わりから追い出しなさい」と理解したとしても、マタイは決してそのようには受け取ることはなかったでしょう。徴税人であったマタイはイエス様にとって、招きの対象でした。いわば、伝道対象者といえるでしょう。

 イエス様は弟子たちに「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とおっしゃいました。この言葉は、教会が神様と人とを結び付けたり、切り離すことができるというように読むこともできるでしょう。確かに歴史の中で教会はそのような権威を振りかざしたこともありました。また、そのようなことこそ教会の権威であり、聖職者たちの権威だと理解する人もいるでしょう。しかし、ここでイエス様が大事になさっていることは、「兄弟を得ること」であり、「つなぐこと」ではないでしょうか。これらの教えは、権威が与えられている、力が与えられていると理解するよりもそれほどの大きな責任が与えられていると受け止めることが大切ではないでしょうか。そして、そのために二人三人で祈りなさい、御心を求めて集まりなさい、そこには私も必ず共にいるという励ましの言葉なのです。

 私たちが呼び集められたのは、裁くためでなく神様の愛と恵みを伝えるためです。私たちが命を得るようにと神様は御子イエス・キリストを世にお遣わし下さいました。そして、私たちが兄弟姉妹を得るため、つなぐためにイエス様は私たちの世に来てくださいました。一人の迷い出た罪びとを探し出し、招くために。そして、神と人とをつなぐために、人と人とをつなぐためにイエス様は世に来られました。それは、十字架の上での祈りにもはっきりと表れています。愛し、赦すことのためにイエス様は世に来られ、十字架への道を歩まれたのです。

 救いの喜びをいただいた私たちは、この福音を伝える責任をいただいています。この責任の重さを知るからこそ、私たちは共に祈ります。そして、共にいてくださるイエス様の導きの中で、福音伝道の働きを共に担うのです。

 

ー祈り-

 主なる神様、こうして共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

 主よ、あなたは私たちを愛し、あなたの民とするためにイエス様を世にお遣わし下さいました。そして、イエス様は弟子たちに、兄弟を得るための道を示してくださいました。私たち一人一人があなたとつながれ、あなたの民となること、そして、私たちが祈りの交わりを大切にし、イエス様の名によって共に歩むことをあなたは望んでおられます。

 あなたの御心を受け止め、兄弟姉妹方とともに、そしてイエス様が共にいてくださることを信じ、福音を宣べ伝え、神と人、人と人とをつなぐ働きを担う教会でありますように。

  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書-  マタイによる福音書18章15節~20節

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」