聖書 マタイ福音書 20:20~28     宣教題 偉くなりたいなら  宣教者 中田義直

 

 ここに記されているのはとても興味あるエピソードです。そして、それはあまりにも人間臭いものといえるでしょう。この出来事はイエス様の弟子たちが、イエス様のことを本当に理解していなかったことを表しています。しかもこれはイエス様の十字架が目前に迫っているときのことです。もうすでに1年、もしくは3年の期間弟子たちはイエス様と寝食を共にして直接教えを受け、イエス様のなさることを見ていました。それでも、彼らはイエス様のことを理解していなかったのです。

 イエス様がご自身の十字架の死の予告、三度目の予告をされた時でした。弟子のヤコブとヨハネが母親と共にイエス様のもとに来ました。そして、母親はイエス様に「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願ったのです。イエス様には十二人の使徒と呼ばれる弟子たちがいましたが、その中でもイエス様は特別な時にはペトロとヤコブとヨハネの兄弟を連れていくことがありました。ですから弟子たちの中でもこの三人は高い地位にいると皆が認めていたと思われます。そして、三人の中でもペトロが一番弟子であり、彼は十二弟子の中でもリーダー的な存在でした。

 ところで、当時、王様にはその右と左に座る特別な地位の家臣がいました。この母親がイエス様に「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願ったのは、二人の息子をそのような特別な高い地位につけてくださいということでした。この背景には、ペトロの存在があったと考えられます。ペテロが王に次ぐ位置である右の座に就くというのは、他の弟子たちも考えていたことでしょう。そうすると、ヤコブとヨハネの兄弟のどちらかが左の座に就くことになるでしょう。兄弟のうちどちらかは特別な地位に就くことができなくなるのです。ですから、母親の願いはペトロを右の座につかせず、二人の息子をという願いなのです。

 「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」と記されているように、このことを知った他の弟子たちは憤慨しました。二人の弟子たちはペトロを、そして他の弟子たちを出し抜こうとして、抜け駆けをしたのです。誰が偉いのか、十二人の弟子たちの序列はどのようになっているのかということは、弟子たちにとって強い関心事でした。そして、エルサレムが近づく中でその関心は高まっていました。そのような状況の中でしたから、他の弟子たちが腹を立てるのも無理のないことでしょう。もしかしたら一番弟子のペトロに取り入ろうとする者や、十二人以外の弟子たちの中にも派閥のようなものができていたのかもしれません。

 イエス様はこのような弟子たちの様子を見て、一同を呼び寄せて「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と語りかけられたのです。イエス様の言葉、これは価値観を変えなければならないという教えです。

 ところで、ヤコブとヨハネのお母さんはなぜイエス様にこのように願ったのでしょうか。それは、自分の息子たちに幸せになってもらいたいという思いからではないでしょうか。誰もが幸せになりたいと願うことでしょう。そして、自分の愛する者、大切な人が幸せになってほしいと願うこと、それは当然の願いであり誰もそれを否定することはできないでしょう。

 イエス様は、神の御子でありながら人となり、私たちのところに来てくださいました。そして、それは、私たちを幸せにするためなのです。私たちの父である神様は、私たちを祝福し、幸せな人生を送ることができるようにと一人ごイエス様を世に遣わしてくださいました。父なる神様が子である私たちが幸せに生きるようにと願っておられることと、ヤコブとヨハネの母親が子供に幸せになってほしいと願っていること、そこには違いはありません。しかし、何を幸せとするのか、その理解、幸せは何かという価値観が全く違うのです。この母親の願いは、二人の息子が王の右と左の座に座るということでした。それは、他の十人をその座につかせないでほしいという願いでした。もし、十二人の弟子たちにとって、王の右と左に座ることが幸せな人生の条件であるならば、この母親の願いは他の十人から幸せを奪って、それを二人の息子に与えてほしいということでした。だから、他の十人は腹を立てたのです。

 このようなヤコブとヨハネの母親の願いを私たちは否定することができるでしょうか。私たちの価値観、そして、幸せの理解はどれだけこの母親と違うのでしょうか。

 イエス様は「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と教えてくださいました。イエス様の十字架の愛、それは、他者の幸せを自分の幸せとする愛です。私たちの命が滅びる命から、滅びない命となることをイエス様はご自身の喜びとし、ご自分の命を捧げてくださったのです。他者に仕えることが偉くなることであり、同じように他者が幸せになることを幸せと思うところに、幸いな人生があるのではないでしょうか。奪うことによって得られる幸せにはいつも、誰かに奪われるのではないかという恐れが伴います。しかし、分かち合うことによって、与えることによって得られる幸せにはそのような恐れは伴いません。イエス様はご自身の命を通して、私たちに「神の子」という決して奪われることのない「座」を与えてくださったのですから。

ー祈り-

 主なる神様、こうして共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

 神様、あなたは私たちを罪から贖い、幸せな人生を歩むことができるようにと御子イエス様を世に遣わしてくださいました。そして、イエス様の十字架の死と復活を通して、私たちを神の子としてくださいました。あなたの御国は私たちの住まいが用意されています。

 私たちはイエス様によって与えられた幸いを知っています。しかし、時として私たちは、この世の価値観に心を奪われます。人の幸いをねたんでしまいます。主よ、どうぞ私たちの裡を聖霊で満たしてください。そして、あなたにある幸いを日々覚え感謝する者としてください。

  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書ー  マタイによる福音書 20章20節~28節

20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」