聖書 マタイ福音書 20:25~28     宣教題 仕える者に  宣教者 中田義直

 二週間前、この聖書個所を特にイエス様の弟子であるヤコブとヨハネ教会とその母親の願いの部分に焦点を当て、特に人の求める「幸せ」という観点から御言葉を聞いてまいりました。そして、今日はその後半のでイエス様が弟子たちに語りかけられた「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」という言葉からイエス様のメッセージを受け止めていきたいと思います。

 ところでこの教えの背景には、ヤコブとヨハネ兄弟とその母親のイエス様への願い、イエス様が王座に就いた時には、この二人のを「あなたの右と左に座らせてください」という願いがあり、そのことを巡って弟子たちの間に怒りの感情があふれたという出来事がありました。

 この出来事の背景には、人と人との間に上下を作り、順序、序列をつけるという、私たちがある意味「当然」「当たり前のこと」と考えている人間に対する価値観があるといえるでしょう。もうだいぶ前になりますが、ある幼稚園でクリスマスのページェント、イエス様の降誕劇を巡ってひと騒動がありました。保護者の方たちから「うちの子をマリアに」「うちの子をヨセフに」という複数の申し出があったのだそうです。実はそれまでも、ヨセフ役やマリア役になった子に対して「あの子のお母さんと○○先生は仲がいいから」とか「保護者会の役員をしないとマリアにはなれない」といったことが噂として話されていたそうです。そして、その年には複数の保護者からの申し出があり、互いに譲らずだんだんと険悪な空気になった挙句にそれまで噂としてささやかれていたことが大きな声で訴えられることになりました。それは本当にうわさに過ぎなかったのですが、収拾がつかなくなり、その年のページェントでは場面ごとに三組のマリアとヨセフが登場することになったというのです。

 その幼稚園ではそのことから園長を中心に先生方が話し合い、まず子どもの希望を聞くことにしたようです。すると女子では天使の人気が髙かかったり、男の子はカッコいいからという理由でローマの兵隊、そして、動物好きのこの中には「羊さんがいい」という子もいたそうです。まず子どもの希望を大切にしていくとうまくいくことが多かったというのです。そして、どうしても重なってしまった時には場面ごとに役が変わるといった工夫をしたそうです。

 その幼稚園の先生と話した時、「子どもはそれぞれ自分のやってみたい役があるようでした。羊の役でもマリアの役でもそこに何の上下もありませんでした。しかし、親は時として配役に序列をつけているようでした。そして、その影響を受けると子ども同士の中でもそんな気持ちが生まれたようです」とおっしゃっていました。

 パウロは、フィリピの手紙3章にこう記しています。少し長いですがお読みいたします。「3:1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。3:2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。3:3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」

 パウロはイエス様に出会ったことによって、それまで誇っていたものを「肉の頼り」と言って価値のないものとみるようになったと言っています。それまで頼りとしていたものは、それによって人と人との間に上下を付ける者でした。そして、その誇りによって「私は上にいる」「序列の中で上位にいる」ということを誇っていたのです。パウロは心から神様を信じていました。神様は人間よりもはるかに高い場所におられる方です。そして、肉の頼りによって高い位置に行けば行くほど、神様に近い存在と自分を理解することができたのです。このような価値観はユダヤの人々の中にもあるものでしたし、私たちもそのように考えることがあるかもしれません。しかし、復活のイエス様に出会ったパウロは「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」というのです。

 ここにはイエス・キリストの十字架の死を知り、復活の主とであったパウロの価値観が示されています。一方、マタイ20章に記されているイエスの弟子たちとその家族はこの時まだ十字架を知らず、復活も知りませんでした。そして、彼らはパウロと同じように「肉の頼り」を求めていました。他者と比べることで自分の価値を確認しようとしていました。そして、他者と比べ、それによって喜一憂しながら歩む人生を歩んでいたのです。しかし、復活のイエスと出会った弟子たちは、誰とも比べられることなく、私を愛し、その愛によってかけがえのない価値を私に与えてくださった神様の愛を知るのです。

 「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」とイエス様はおっしゃいました。そして、イエス様がこの言葉の通りに生き、そして死なれたということをパウロはこう記します。

 「2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

 私たちはこのキリストの愛を知っています。だからもう人と自分を比べて自分の価値を確認する必要はないのです。神はご自身の御子の命をもって、私たちを罪から解放してくださいました。私たちには、神の御子の命の価値が注がれているのです。

 仕えるために世に来られ、神様の愛を教えてくださったイエス様に倣うようにと主なる神様は招いておられます。私たちは他者に仕える者へと招かれているのです。この招きに応え、神と人とに仕え、永遠の命を与えてくださった神様の愛、十字架の愛とイエス様の復活の恵みを証ししてまいりましょう。

 

ー祈り-

 主なる神様、こうして共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

 神様、あなたは私たちを愛し、御子イエス様をお遣わしくださいました。イエス様は世にあって、神様と人とに仕え、十字架に至るまでの従順な歩みを全うし、あなたの愛をお示しくださいました。私たちはこのイエス様の十字架の愛によって愛されています。。

 主よ、聖霊の導きにより、私たちをキリストに倣う者、神と人とに仕える者としてください。そして、この世にある限り、あなたの証し人とした歩む者としてください。

  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書ー マタイによる福音書 20章25節~28節

そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」