「喜びの知らせ」 マルコによる福音書1章1節
宣教者:富田愛世牧師
【マルコによる福音書とは】
今日からしばらくマルコによる福音書を続けて読んでいきたいと思っています。先週は、この準備のためにマルコ福音書を読み、関連するいろいろな本を読みながら、あらためて聖書というものは奥の深い書物だと感じさせられました。何となく当たり前なのだけれど、もう一度あらためて言われると「アッ、そうだった」と思えるようなことにたくさん出会いました。
まず初めにマルコによる福音書とは、どんな書物なのかということから見ていきたいと思いますが、新約聖書には4つの福音書があります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという順番ですが、この中で一番初めに書かれたのが、このマルコによる福音書だといわれています。紀元70年頃にローマで、ヨハネ・マルコというペテロの弟子のような人が書いたと言われています。そして、4つの福音書の中で、ハッキリと「これは福音書です」と語っているのはマルコだけなのです。
それでは、福音書とはいったい何でしょうか。書物の中には様々な分類というものがあります。純文学とかエッセイとか、聖書の中にも預言書、律法書、書簡などがありますが、その一つの文学類型として福音書というものがあるのです。そして、福音書としての要素が3つあり、それは「イエスについての言い伝えである」ということ「神と神の国に関する物語である」ということ、そして「キリスト教の唯一の聖典である聖書の中で重要なものである」という3つの要素があるのです。
マルコによる福音書はこの3つの要素を満たしている福音書なのです。なぜこんなことを言うのかと言うと、この4つの福音書以外にも聖書の外典と呼ばれるものの中に50以上の福音書という名前を付けた文書があるのです。有名なものにはトマスの福音書やピリポ福音書がありますが、そこにはイエスについての伝説がたくさん記されているので、聖典ではなく外典になっているのです。
今日、読んだ1章1節はたった1行ですが、この中に、イエスが神の子であり、キリストであり、イエスご自身が福音であるということが宣言されているのです。単純な言葉、当たり前のことのように感じますが、この内容についてこれから見ていきたいと思っています。
【神の子、キリスト】
マルコによる福音書の出だしは「神の子イエス・キリストの」となっています。ここに「神の子」という言葉と「イエス・キリスト」という言葉が出てきます。イエスというのは固有名詞ですが、神の子とキリストは固有名詞ではなく、イエスとはこういう方ですということを説明する言葉です。
はじめにイエスとは神の子なのだということから見てみましょう。
11節を見ると、バプテスマを受けたイエスに対して天から「あなたはわたしの愛する子」という声があったと言うのです。天からの声ですから、これは神の声です。神ご自身がイエスに対して「わたしの愛する子」と宣言された、つまり、神の子であるという宣言がなされたのです。ここからイエスの宣教活動は始まります。そして、最後はどのようになったでしょうか。15章39節で十字架の上で息を引き取られたイエスを見て、ローマの百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と告白しています。
このようにイエスが神の子であるということが、マルコの伝えようとした一つのポイントなのです。一人の人間が、それもナザレという田舎出身の大工が、どうして神の子なのでしょうか。当時のユダヤ教の宗教指導者たちから見るなら、許せないことだったのです。
また「キリスト」という言い方についても同じ事が言えるのです。今ではイエス・キリストという言い方が名前のように用いられ、当たり前の表現ですが、キリストという言葉は「油注がれた者」という意味があり、油注がれた者というのは「王」のことを指しているのです。ですから、イエスの十字架に付けられた罪状書きには「ユダヤ人の王」と書かれたのです。これもまた、当時のユダヤ教の宗教指導者たちから見るなら、許せないことでした。なぜなら、ユダヤ人の王ならば、律法に基づいて、律法を厳守する、というガチガチの律法主義的な考え方を持っていたからです。
このようにユダヤ教の指導者たちからは良く思われていなかったけれども、その方が本当の神の子であり、救い主であり、神が主権を持たれる神の国の王なのだ、ということを宣言するには理由がありました。それは、律法主義から救いは生まれない、救いは、このイエスの福音にこそあるのだと言うことなのです。
【福音】
さて、それでは福音とはいったい何なのでしょうか。これも当たり前のような、分かっているようなことですが、実は自分で説明するとなると、戸惑ってしまう内容ではないかと思います。福音の元々の意味は、戦勝を伝える伝令の言葉でした。それは、その国にとって喜びの知らせだったのです。なぜ喜びの知らせなのか。それは自分の生活がかかっているからです。それが戦勝の知らせならば、自分たちには解放と平安が与えられますが、反対に戦争に敗れた知らせだったとするならば、束縛と不安の知らせになってしまうのです。このような厳しい言葉が元々の意味であるということは、福音というものは私たちの人生、生涯にとって本当に大きな決断を迫る出来事だということなのです。
人は苦しみの中にあるからこそ、良い知らせを求めるのです。仏教の思想には、人が生きていることは、すなわち苦である、ということがあります。何かをする時に「四苦八苦する」と言うことがありますが、この言葉は元々仏教の「四苦」という言葉から来ているのです。仏教では、生老病死の四苦に、愛別離苦、愛する者と別れなければならない・怨憎会苦(おんぞうえく)憎らしい人と一緒にいなければならない・求不得苦(ぐふとくく)求めるものが手に入らない・五陰盛苦(ごおんじょうく)元気な時には他人の優しさや親切を理解できない、元気を持て余すという事、の四苦とを併せて八つの苦しみを表しますが、これは人間のあらゆる苦しみ、そして生きていることそのものを意味します。
私たちの生活には苦しみはつきものなのです。苦しみのない世界に行きたいと、多くの人は思っていますが、そのような世界はどこを探しても有り得ません。苦しみは必ずあるのです。しかし、聖書はその苦しみから解放される方法があると語るのです。ここは注意しなければなりません。苦しみがなくなるのではありません。苦しみに縛られるのではなく、そこから解放されるということです。
この解放の知らせが「福音」良き知らせなのです。
【復活の希望】
良き知らせとしての「福音」とは一言で言うと何でしょうか。それは「復活」という希望なのです。マルコ福音書はイエスが、神の子、救い主、来るべき王であると主張しています。それは、十字架で死んで、それで終わりではないということを伝えるためだったのです。
高橋三郎という内村鑑三の弟子で、無教会派の伝道者が書いた「王としてのイエス」という本があります。その中に福音の本質を語っているとする、一つの創作童話がありましたので、ここでご紹介したいと思います。
-ぼくの出会ったイエス様-
お母さんはすでに亡く、お父さんは子どもを家に置いて漁に出るとき、「さあ、ぼうず、今日もおとなしく、いい子にしているんだぞ。父さんが出かけても、天国の母さんがお前のことを見守っていてくれる。母さんを悲しませちゃあいけないよ」。 と言って出かけて行きます。ところがある日のこと、ものすごい風が吹き、稲妻と雨を伴うひどい嵐になりました。
「あらしだ! あらしがやって来た!」
ぼくは父さんのことを思った。一人で漁に出てった父さん。父さんはどうしているだろう。ぼくは湖までかけて行った。雨にたたきつぶされそうになり、風にふきたおされそうになりながら、いなずまの光る中をかけて行った。ずぶぬれで、よれよれだけど、雨や風やいなずまに負けない大きな声でさけんだ!
「父さーん!父さーん!」・・・・ ぼくは湖の岸辺を走った。どんどん、どんどん走った。涙で目が見えなくなっても、めちゃくちゃに走った。
「父さーん!父さーん!」 って泣きながら走った。あんまり走って、足がもつれて、地面につっぷして泣いた。泣いて、泣いて、泣き疲れて、ぼくはそこで眠ってしまった。
そして夢を見た。だれかがぼくのそばにいて、母さんのようにやさしくぼくの頭をなでながら、つぶやいていた。 「ああ、かわいそうに。かわいそうに」。 そう言いながら、その人も泣いていた。その人のやさしさにつつまれて、またぼくも泣いた。
風がふうっと吹いて目が覚めた。その人はいなかった。でも、ぼくには、はっきりわかった。その人のやさしさが、今もぼくを包んでいてくれることが・・・・。
「いったい、だれだろう」。 ぼくは考えた。
「そうだ!イエス様だ!村の人たちが話してたイエス様だ!あの人にはふしぎな力があったもの」。
ぼくは立ち上がった。イエス様に会いに行くために立ち上がった。
益満孝子著 「信徒の友」日本基督教団出版局 1977年3月号掲載
この話はハッピーエンドで終わっているわけではありません。むしろ、非常に現実的です。その現実的な部分に復活のイエスがおられるのです。私たちの生活から、決して苦しみはなくなりません。悲しみはなくなりません。しかし、その苦しみや悲しみの中にいる時、何かの力によって慰めを受け、励ましを受けることができるのです。それが復活し、今も生きておられるイエス・キリストなのです。