「罪を赦す方」                マルコ福音書2章1~12節

宣教者:富田愛世牧師

【熱心な信仰者】

 一生懸命になるとか熱心になるということは、聖書の中にもたくさん出てくる言葉で、人間が生きていくために大切なことなのです。しかし、この熱心さというものも、目的を見失ってしまい、熱心であることが目的になってしまうと、問題を引き起こしてしまうことがあります。

私たちはいつも、そういったところを注意していなければならないのです。その場の雰囲気であるとか、感情といったものに押し流され、事の本質を見失ってしまってはいけないのです。

 今日の聖書の箇所には3種類の熱心な人々が登場します。この3種類の人々とは、第一に中風の人と彼を運んできた人々、ここでは4人の人となっています。

第二は6節以降に出てくる律法学者たちです。聖書の中で律法学者は悪者扱いをされていますが、彼らの信念への熱心さというものは徹底したものだったのです。

そして、第三はそこに集まっていた群衆たちです。彼らは物見胡散に集まっていたのではなく、イエスの「権威ある話」を聞き、しるしを求めていたのだと思います。

この3種類の人たちは熱心な信仰者たちであると言ってもいいと思います。それぞれ自分の信仰に対して忠実で熱心な信仰者たちだったのです。

【罪を赦す方】

はじめに、中風の人と彼を運んできた人たちの熱心さを見てみましょう。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「あなたの罪は赦される」と語られましたが、もし、私たちがこの中風の人だったなら、この言葉に納得するでしょうか。何か変だなと思いませんか。

中風の人も彼を運んできた人たちも、病の癒しを求めて来たはずなのに、そしてイエス自身もそれくらいのことは分かっているはずなのに、なぜ「あなたの病は癒されます。立って床を取り上げなさい」と言われなかったのでしょうか。

しかし、ここに重要なキーワードがあるのです。それは「彼らの信仰を見」たという事なのです。彼らの信仰の中心は、病が癒されるということだけではなく、罪からの解放、罪の赦しということが中心だったという事なのです。

もちろん、最初からイエスの「あなたの罪は赦される」という言葉を期待したかどうかは、分かりません。ただ一つ言えることは、当時の考え方としては、病気になるとか不幸なことが起こる背景には、その人や先祖の罪が関係していると思われていたということがあります。

いわゆる因果応報的な考え方です。しかし、イエスはその人の罪や先祖の罪とは関係ないとハッキリ宣言しています。因果応報的な考え方は捨てなさいと言っているのです。ですから、「あなたの罪は赦される」という言葉で十分だったのかもしれません。とにかく、彼らの関心は現象ではなく、本質だったのではないかと思うのです。

さらに彼らの信仰的熱心さは、常識的な行動から、常識を超えた行動へと進んでいくのです。

群衆に邪魔され、イエスの所へ行くことができないと分かると、そこであきらめるのではなく、他の方法を探し出しているのです。そして、探し出した方法は、家の屋根を破って、そこからつり降ろすという方法でした。常識では考えられない方法です。しかし、信仰的熱心は、このような不可能を可能に変えていってしまうのです。

【対立する熱心さ】

次に、律法学者たちの熱心さを見てみましょう。彼らは律法を中心としたユダヤ教の戒律を守ることに、ことのほか熱心でした。その熱心さはイエスの言動への批判、非難という方向に向かっていったようです。

イエスが中風の人の罪を赦し、病を癒した様子を見ていた律法学者たちは、彼らの熱心さゆえにイエスのことを非難しているのです。

この律法学者たちの熱心さの根底にあるのはユダヤ教の律法主義という信仰というより、信念といったものなのです。

ユダヤ教の起源がいつなのかは様々な見解があると思いますが、イエスの時代には、少なく見積もっても500年以上の歴史を持っていました。歴史を重ねることは大切ですが、反面、形骸化してしまうという面も持ってしまいます。

何のために神が律法を人間に与えたのかということより、律法を守ることが優先してしまい、人の救いより、ユダヤ教の形態を守ることが優先してしまったのです。

しかし、この事実を私たちはただ批判するのではなく、自分自身に当てはめて考えることが必要だと思うのです。注意していなければ、私たちもこの律法学者たちと同じ態度をとってしまうのです。

マニュアルのようなものを作り、何も考えずに「教会ではこうするのです」と言ったり「聖書にはこう書いてあります」と言って、相手の気持ちを考えずに対応してしまうことがないでしょうか。

初めて教会に来た人に対して、当たり前のように「新来者紹介」をすることによって、注目されて喜ぶ人もいますが、二度と教会に来なくなる人もいるのです。

自分の仕事に一生懸命になりすぎて見失ってしまうことがある、ということを心に留めておかなければ、イエスの働きの邪魔をしてしまうこともあるのです。

【群衆】

さて、もう1種類の熱心な人々は群衆でした。彼らはイエスが来たという噂を耳にして集まってきたのです。中には物見胡散で来た人もいるかもしれませんが、1章22節にあるように権威ある話を聴こうとする熱心な人々がいたのです。

しかし、群衆の熱心さは非常に微妙なもので、ある意味では自己本位なもののようです。中風の人がイエスの所に行く時には、彼らは邪魔者でした。

しかし、12節を見るとイエスの御業を見た時には、素直に驚き、神をあがめているのです。これは、良いとか悪いとか言うことではなく、群集心理とはこういうものであるということです。

そして、それは現実として受け止めておかなければなりませんし、このような群集心理に左右されてはいけないのです。

教会はこのような群衆に対して、イエスによる「赦し」を伝えなければならないのです。群集というのは、ただの烏合の衆を指すのではありません。利己的かもしれませんが、それぞれの信念に基づいて、熱心に求めてくるのです。そして、それに応えることの出来る相手なのか、出来ない相手なのかをシビアに見極めるのです。

今、教会は試されているのです。群衆の目に律法学者たちのように映るのか、それとも中風の人を運んできた人々と映るのか。

現代社会に生きる人々はみんな、多かれ少なかれ良心の呵責の中、迷いながら毎日を過ごしています。私たちもその一人ですが、クリスチャンは少なくとも、罪が赦されることを知っているのです。そこには平安があるのです。しかし、罪の赦しを知らない人は、今も不安の中にいるのです。私たちには「赦される」ことを伝える使命が与えられているのです。