前 奏
(*招 詞   歴代誌上16章36節)
(*讃 美   新生4   来たりて歌え)
開会の祈り
讃 美   新生216 栄の冠を
主の祈り
(*讃 美   新生232 カルバリ山の十字架につきて)

「主イエスを求め祈る」            マタイによる福音書7章7節

宣教者:富田愛世牧師

【求めても・・・】

2020年度の主題聖句は今日の個所であるマタイ福音書7章7節です。そして、年間主題は今日のタイトルとなっている「主イエスを求め祈る」です。年度の初めなので、この主題聖句から聞いていきたいと思います。

マタイ福音書7章7節には「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」という3つに分けられる言葉が並んでいるので、今年度は初めに書かれている「求めなさい」という事を中心にしていきたいと考えています。

求めなさい、そうすれば与えられると聖書は語りますが、本当にそうなのでしょうか。求めるものがすべて与えられるなんて、そんな都合の良い話があるものかと思う人の方が多いのではないかと思います。

しかし、反面、求めていたことが、本当にその通りになったと喜べる出来事も、それぞれの人生の中で経験しているのではないかと思うのです。

そして、その事実の背後に「信仰」があるからだと思える時も、少なからずあったのではないかと想像するのです。

多くの場合、それは「教会のため」とか「誰かのため」というくくりの中で求めたことや物が実現したから喜べたのではないかと思います。

反対に、これは教会のためとか誰かのためと言って、信仰的な必要から求めたはずなのに「与えられなかった」とガッカリすることもあったのではないかと思います。

【祈り求める】

このマタイ7章7節は5章から始まる「山上の説教」と呼ばれるイエスの説教の後半の一部分です。そして、6章には主の祈りが記録されています。

このような全体の流れの中から理解するなら、ここで語られる「求めなさい」という言葉は祈ることでもあると言われています。祈り、求めるという事なのです。

しかし、祈り求めるという事に対して、よく言われることですが、ただ何もせずに祈るだけで良いのかという問いかけがあります。

教会の中でよく「祈っています」という言葉を聞きます。聞き流せば、とても信仰的な素晴らしい言葉にも聞こえますが、私のように少しひねくれて「本当かな」などと疑ってしまうと偽善的に聞こえてしまう事があります。

昔ある方から「毎日、先生の働きと家族のために祈っています。」と言われたことがあります。その方は本当にそのように毎日祈ってくださったと思うのですが、7年たっても私の娘の名前を憶えていませんでした。

それも祈りなのかもしれませんが、もう少し具体性が欲しいなと思ったのですが、いかがでしょうか。もちろん、良いとか悪いという事ではなく、私はそのような経験からまだまだ出来てはいませんが「人」を見ていくことができたらいいなと思うようになりました。

祈るという時、ただ何もせずに言葉や思いの中で唱えるようにすればいいのか、考えさせられます。しかし、「誰」とか「何」という祈り求める対象がはっきりすると、そのためにこうしよう、ああしようという具体的な行動へと押し出されるような気がするのです。

【行動すること】

そのように押し出される理由として、次に続く言葉があります。7章7節は「求めなさい」で終わるのではなく「探しなさい」そして「門をたたきなさい」と続いているのです。

求める時、何もせずに「棚からぼた餅」的に、じっと静かに待ち続けるという姿勢もあると思います。

しかし、祈り求めるという時、その求めは、少なくとも神の前に言い表すわけです。神に訴えたなら、何もしないで良いと考えるかもしれませんが、神に訴えるからこそ、そこには、次に出てくる「探す」という行為が出てくるような気がするのです。

それは、神に対する期待だと思うのです。神に祈り求めたのだから、答えが出てくるはずだ、なのに何も起こらないとするなら、それは何も起こっていないのではなく、気づかないだけかもしれないと思う。それが神に対する期待から出てくる行動だと思うのです。

どこにその答えがあるのかを探すということは、とても大切な行動なのです。

そして、探し続けるならば、そこに門を見つけるのではないでしょうか。

門の中に答えがあるという期待をもって、門を叩くならば、神はそれに答え、門を開けてくれると約束されているのです。

門という事を考える時、私たちはヨハネ福音書10章9節を思い浮かべるのではないでしょうか。そこには「わたしは門である」と語るイエスがおられるのです。

祈り求めて、探し出した時、私たちの目の前にあるのは、木や鉄でできた、固く閉ざされた門ではなく、イエスという、私たちの想像を超えた門が現れ、その門は、私たちに向かって開かれているのです。そして、誰でもこの門を通って入ることができるのです。

イエスという門を入った者には、祈り求めた答えが待っているのです。

【本当に必要なもの】

神の計画というものは、人間の思いをはるかに超えたものだと聖書は語っています。  私たちが祈り求めているものについても、同じように神は最善の方法で答えてくださいますが、そこにあるのは、私たちの思いを超えた答えなのです。

つまり、自分の中で「こうなってほしい」と願う事が必ずしも最善の道ではなく、今は「与えられなかった」と思えることも、後になってみると、それが最善の道だったと気づかされるのです。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。」と言われる時に「与えられる」ものとは、私たち人間の愚かな知恵で求めていたものとは限りません。私たちの愚かな知恵でこれが最善と思っていたものでも、神の知恵の前に不完全なものだったとするなら、神はその代わりに、私たちにとって最善な別のものを与えてくださるという事なのです。

最後に一つ、有名な詩を読んで終わりにしたいと思います。ニューヨークにある物理療法リハビリテーション研究所の壁に架けられている「ある無名兵士の詩」という詩です。

       「ある無名兵士の詩」(病者の祈り)

大きなことを成し遂げるために 強さを与えてほしいと神に求めたのに
   謙遜を学ぶように 弱さを授かった
偉大なことができるようにと 健康を求めたのに
   よりよきことをするようにと 病気を賜った
幸せになろうとして 富を求めたのに
   賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の称賛を得ようとして 力と成功を求めたのに 
   得意にならないようにと 失敗を授かった
人生を楽しむために あらゆるものを求めたのに
   あらゆるものをいつくしむために 人生を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
   願いはすべて聞き届けられた
私はもっとも豊かに祝福されたのだ

   

讃 美   新生566 主に任せよ
献 金   
頌 栄   新生672 ものみなたたえよ(B)
祝 祷  
後 奏