前 奏
招 詞   イザヤ書11章1~5節
讃 美   新生 87 たたえまつれ 神のみ名を
開会の祈り
讃 美   新生157 来れ 友よ 喜びもて
主の祈り
讃 美   新生195 待ちわびし日
聖 書   マタイによる福音書2章1~12節
                    (新共同訳聖書 新約P2)
宣 教   「あなたを招く神」         宣教者:富田愛世牧師

【喜びの時?】
 クリスマス、おめでとうございます。今日はクリスマス礼拝であると同時に、今年最後の礼拝でもあります。
 クリスマスなのか、年末なのか、明確に区別することはできませんが、この時期になると様々な「お話」が話題になることがあります。数十年前には「一杯のかけそば」というお話が流行り、十年位前には「シークレットサンタ」が話題となりました。そういったことに関係しているのかどうかは分かりませんが、テレビ番組でも「いい話」を取り扱ったものが見られます。
 今年の話題は何かな?と考えた時、暗い気持ちに成らざるを得ないと感じました。新型コロナの感染は未だに収束の兆しが見えませんし、ロシアによるウクライナ侵攻も収まる気配がありません。同じアジアでもミャンマーの軍事政権は一般市民に対して暴力をふるい続けています。
 先日、今年の漢字が発表されました。皆さんもご存じだと思いますが「戦」という字が、今年の漢字として選ばれたわけですが、2001年以来、二度目の選出だという事でした。
 私たちは今、喜びの時としてクリスマスを迎えていますが、現状を見るならば、世界中が、ただ喜ぶだけでは済まされない時として、この時期を過ごしていると思います。
 しかし、現実には去年も一昨年も、さらには10年前、100年前、何千年前から同じようなことが世界中のどこかで起こっていたはずなのです。
 私たちの現実の生活を振り返るなら、そこには苦しいことや悲しいことがたくさんあり、まったく喜べないような現実を前にしてしまうかもしれません。絶望の中にいて目の前が真っ暗闇だと感じている人がいると思うのです。
【二千年前の出来事】
 聖書を見ると二千年前にも似たような状況があったようです。もちろん、今私たちが直面しているコロナ危機とか世界中の政情不安という事ではありませんが、大きな苦しみ、悲しみ、痛みの中にいて、なんとかその状況から抜け出したいと思っていた人々が大勢いたようなのです。
 今お読みしたマタイによる福音書2章では、ヘロデ王の時代にイエスが生まれたと書かれています。このヘロデ王という王は政治的には優れた王だと評価されています。しかし、一般庶民からは暴君として恐れられ、恐怖政治を行っていたようです。
 当時の状況を簡単に説明すると、ユダヤという国は紀元前140年頃、独立してハスモン朝というユダヤ人の王朝を築きます。その後ローマ帝国の保護国となりユダヤ属州と呼ばれるようになりました。紀元前70年頃からハスモン朝の内部で権力闘争が起こり、王位不在となった時、ローマ帝国の介入によってヘロデが王として認められたようです。
 このような経緯によって誕生したヘロデ王朝はローマに対して、多額の税金を支払わなくてはならないようになったのです。そして、その経済的なしわ寄せは、当然の事としてユダヤの民衆に課せられたのです。
 人々は、ローマ帝国への税金、そして、ユダヤ教徒として神殿を維持するための神殿税、さらに領主としてのヘロデ王に対する上納金という3重の取り立てに苦しみ、働いても働いても、その暮らしは豊かにならなかったようです。
 人々は働いても豊かにはなれないという状況の中で、いつか救世主が現れ、自分たちをヘロデ王の支配、ローマ帝国の支配から解放してくれると思っていたようです。
 ただし、結果から見ていくならば、ユダヤ人は自分たちに都合の良い救世主を望んでいたようで、実際にその出現に気付いたのは、ユダヤ人が軽蔑していた東方に住む異邦人でした。
【占星術の学者たち】
 イスラエルから見て東方という事で、この学者たちはペルシャの人ではないかと言われることもありますが、実際にはどこの人なのかはわかりません。しかし、分かっているのは、彼らは招かれざる人々として、イエスの誕生に立ち会っているのです。
 彼らは占星術の学者という事で、星の観察によって、様々な事を知ろうとしていたようです。そして、その星の中に不思議な動きをする星があることに気付き、調べているうちに救い主の誕生という事に行きつくのです。
 現代の科学的な知識から考えるならば、星が何かを教えてくれるなどということはナンセンスです。科学的な説明では、夜空に見える星は、ほとんどが太陽と同じ恒星で、地球から何万光年も離れたところにあって、その光が地球上に届いているだけだと説明して終わるのです。
 しかし、現代科学で、そのように説明されたとしても、人間の心には何千年も前から、星にはもっと不思議な力があると信じられています。もちろん、星そのものに力があるわけではなく、星が不思議な力の一つの象徴であると思われているのです。
 真っ暗闇の夜空に輝く星を見た時、人間には不思議な何かを感じる感性が甦ってくるのではないかと、私は思っています。その何かというのは「神」を感じる力だと思うのです。
 人間の知恵や力だけでは、どうにも解決できない事柄を目の前にした時、絶望してしまって何もできなくなる人がいます。そのような人を責めることは誰にもできません。しかし、神はその姿を黙ってみているだけではありません。絶望の真っ暗闇の中に一筋の光を与えてくださるのです。
 東方の学者たちが見た星は、彼らを救い主イエスの元へと導きました。小さな光ですが、その光は確実に私たちを希望へと導いているのです。
 クリスマスという出来事を、一般社会では華やかな一面だけを強調し、商業主義と結びつけています。しかし、それだけでは残念な出来事になってしまいます。星の光のような小さな光、でも確実に私たちを希望へと向かわせるその光、それがイエス・キリストであり、このお方に目をとめることが出来るなら、前に向かって歩んでいけるのです。
【あなたを招く神】
 今、クリスマスの礼拝に与っている私たちに、聖書は何を問いかけているのでしょうか。私たちの常識の中でクリスマスとはどのような意味を持っているのでしょうか。
 クリスマスに対するイメージを一般の人に聞くと ①クリスマスケーキ ②クリスマスプレゼント ③クリスマスソング ④イルミネーション ⑤クリスマスディナー⑥クリスマスデート ⑦クリスマスバーゲンとなっていました。他にもありますが、残念なことにイエス・キリストの誕生や教会というイメージはかなり薄いようです。
 それでも、ある程度の知識を持った方はキリストの誕生日であり、クリスマスはキリスト教会で過ごしたいと考えているようです。それに対して、キリスト教会は門を開いているでしょうか。
 自分たちの事柄なので、客観的に見て、評価することはとても難しいことですから、教会に来られた方々にお尋ねするのが一番良いのだろうと思います。しかし、私は年に一度だけだったとしても、それこそ年に一度の初詣感覚だったとしても、その人がキリスト教会に行ってみたいと思うなら、それはとても大切なことだと思います。
 こんなことを言うと「甘い」とか「不謹慎だ」と言われるかもしれません。二千年前のユダヤの宗教指導者たちも、東方の学者たちを招かれざる客として扱いました。その結果として救い主の誕生に立ち会うことが出来なかったのです。
 同じ過ちをキリスト教会はしてはいけないし、東方の学者たちと同じように、私たちも招かれざる客なのかもしれません。もちろん、招かれざると語るのは、宗教指導者たちであり、神ではありません。
 しかし、私たちは、すでに長い歴史の中で作られてしまった常識や習慣によって、キリスト教会に相応しい人、イエスの誕生に立ち会うのに相応しい人、というイメージを持っているのではないでしょうか。そのようなイメージに照らし合わせるならば、誰が胸を張って、イエスの誕生を見に行けるでしょうか。
 そんな私たちを喜んで招いてくださるのが、聖書の語る神なのです。そして、イエスご自身が、私たちを迎え入れてくださるのです。

祈 り
讃 美   新生183 優しきマリア
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏