前 奏
招 詞   ゼカリヤ書9章9節
讃 美   新生  4 来りて歌え
開会の祈り
讃 美   新生216 栄えの冠を
主の祈り
讃 美   新生232 カルバリ山の十字架につきて
聖 書   マタイによる福音書21章1~11節
                      (新共同訳聖書 新約P39)
宣 教   「平和の主の入城」   宣教者:富田愛世牧師
【一週間前の出来事】
 今日から受難週に入りますが、この時、私たちはイエスの最後の一週間に何が起こったのか、そして、何を思っていたのか、そのようなことに思いを巡らせながら過ごすことが出来るならば幸いなことではないでしょうか。
 受難週の主の日、棕櫚の主日と呼ばれる時に与えられたテキストがマタイによる福音書21章1節から11節です。そして、今日のタイトルは「平和の主の入城」としました。音だけを聞くと、場所に入るという意味の「入場」なのか、城に入るという意味の「入城」なのか、区別がつきませんが、この場面では、城に入るという意味での「入城」という言葉が用いられます。
 当たり前のことで、今さらという感じもしますが、当時のおもだった町は城壁に囲まれ、敵からの攻撃に備えるのが常識でした。聖書を読む時、エルサレムというと神殿というイメージが先に来るかもしれませんが、エルサレムという町も城壁に囲まれていたのです。それは、いつでも敵からの攻撃に備えているという事でした。
 ですから、イエスがエルサレムに入城する時、多くの人は「平和の主」というイメージは持っていなかったと思います。どのようなイメージを持っていたかというと11節にあるように「ガリラヤのナザレから出た預言者イエス」だったのです。
 マタイによる福音書では、このように記録していますが、当時のエルサレムの住む人々にとって「ガリラヤのナザレ」とは、どのような意味を持っていたのでしょうか。また、「預言者イエス」とは、どのような意味を持っていたのでしょうか。それぞれについて見ていきたいと思います。
【ガリラヤのナザレ】
 エルサレムに住む人々にとって、エルサレムという町はユダヤの都であり、神殿の建てられている町でした。つまり、名実ともに政治、経済、宗教、すべての中心地がエルサレムでした。
 現代的な言葉でいうならば、エルサレムというブランディングが確立していて、そこに住む人々は、エルサレムに住んでいるという事だけで優越感を得ることが出来、そういう意味で傲慢になっていたようです。
 それに対してガリラヤという地域は、エルサレムから見ると辺境の地だったようです。イエスが福音宣教の働きを始められた時のことが、マタイによる福音書4章12節以降に書かれていますが、そこには預言者イザヤの言葉として「異邦人のガリラヤ」という言葉が出てきます。そして、イエスはガリラヤのカファルナウムに住み、そこで福音宣教の働きを始めたのです。
 ユダヤ人にとって「異邦人」という言葉は差別的な言葉でした。エルサレムに住む人々にとってガリラヤ地方は、また、ガリラヤの人々は一段低いと見られ、差別の対象だったのです。
 ただ、現実を見ると、ガリラヤ地方は長い間、異邦人によって支配されていたという歴史がありました。また、地理的にも、エルサレムから遠く離れ、エルサレムとガリラヤの間には、サマリアがあるので、孤立した地域だったのです。
 さらにナザレという町については、ヘブライ語聖書には、その名前すら出てきませんし、一般的な歴史の書かれているヨセフスのユダヤ古代誌にも、その名前は出てこないそうです。つまり、無名な町であって、誰も知らないような、片田舎の町でしかなかったのです。
 そして、ヨハネによる福音書7章52節を見るとファリサイ派の宗教指導者たちが、イエスについて議論している箇所があります。そこには「ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」と書かれています。
 「ガリラヤのナザレから出た預言者イエス」という認識は、独特のもので、決して本当の姿を現していないという事になると思います。
【預言者イエス】
 次に「預言者イエス」という事について見ていきたいと思います。そもそも、預言者とはどのような人の事を指しているのでしょうか。
 日本語で「よげんしゃ」という音だけを聞くと、将来の事を言い当てる、あらかじめという字を使う「予言者」をイメージする人が多いと思います。普通のワープロを使うと最初に変換される字は、あらかじめの言葉の者になります。
 しかし、聖書が語る「よげんしゃ」とは、あらかじめの言葉の者ではなく、預かる言葉の者と書きます。つまり、言葉を預かって、それを人々に告げる人の事を意味しているのです。言葉を預かるのですから、誰から預かるのかという事が重要になります。それは神からの言葉を預かるという事になるのです。
 ヘブライ語の聖書を見ると、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった有名な預言者たちが登場します。それぞれが人生のある時期に、神からの啓示と言って、不思議な形で神のことばを聞いてしまう訳です。神のことばを聞き、素直に従って預言活動をする預言者もいましたが、中には、自分には荷が重いと言って逃げ出してしまう人もいたようです。しかし、神から逃げることが出来ず、預言活動を始めざるを得なくなるようです。
 ただ、聖書の中には、このような神によって預言者にされる人だけでなく、時の権力者、王などに助言をする、職業預言者と言われる人もいたようです。
 イエスの時代にも人々は預言者を求め、神の言葉を聞きたいと願っていたようです。そのような時にバプテスマのヨハネが現れ、人々は彼を預言者として受け止め、イエスもヨハネを最後の預言者として受け入れていました。
 マタイによる福音書11章を見ると、そこにはバプテスマのヨハネとイエスとの関係が記録されています。そして、イエスはご自身について「預言者以上の者である」と語っているのです。
【平和の主】
 預言者以上の者とは「メシア」を意味していると思います。しかし、イエスにメシアとしての自覚があったのかどうかは分かりません。ただ、メシアという言葉の概念がイエスと群衆とでは違っていたと思います。
 当時のユダヤの人々はローマ帝国の支配から自由になることを願っていました。それはエジプトで奴隷として働いていた祖先が、神に叫び求めた時、奴隷から解放されて、約束の地、カナンへと旅立つことが出来たことを思い起こさせます。
 特にガリラヤにおいては紀元前2世紀にマカバイ独立戦争が起こり、イエスの時代にも「ガリラヤのユダ」がローマに対する反乱を起こしています。ガリラヤにおいては度々、カリスマ的な指導者が立ち上がり反乱を起こしていたのです。ですから、人々の抱くメシア像の一つは、そのような革命家の姿だったのです。
 彼らは実力行使で革命を起こそうとしていました。しかし、イエスの行動は、そのような革命家たちとは違っていました。人々は実力行使もいとわない革命家を求めていたようですが、イエスは平和の主としての変革を考えていたのです。
 それを表すために「子ろば」に乗って入城したのです。「子ろば」とは何を意味しているのでしょうか。3月12日の聖書教育はルカによる福音書19章28節から40節を読み「主がお入り用なのです」というタイトルでの学びをしました。
 そこには「まだだれも乗ったことのない子ろば」とありました。つまり、まだ役に立たない子ろばなのです。それは役に立たないものを象徴しているのです。
 しかし、本当に役に立たないのでしょうか。そのように考えるのは、私たちが効率主義的なものの考え方にどっぷりと浸かってしまっているからではないでしょうか。私たちにとっては、役に立たないように見えても、神はそうは見ないのです。現にこの子ろばはイエスを乗せているのです。
 ただ、聖書教育の聖書のお話にあるように、イエスは子ろばに乗って、楽々と歩んでいるのではありません。「まるで子ろばをかかえるように、その背に揺られるイエスさま」なのです。

祈 り
讃 美   新生223 主はそのいのち
主の晩餐  配餐/柿崎幸代姉 高橋美穂姉
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
祝 祷  
後 奏
報 告
挨拶の時