前 奏
招 詞   詩編103編3~5節
讃 美   新生  4 来りて歌え
開会の祈り
讃 美   新生240 救いの主はハレルヤ
主の祈り
讃 美   新生249 み神はこの日を作りたもう
聖 書   マタイによる福音書28章1~10節
                     (新共同訳聖書 新約P59)
宣 教   「ガリラヤへ」    宣教者:富田愛世牧師
【イエスの孤独】
 先週、受難週を過ごしながら、イースターメッセージのために、いろいろなことを考えていました。そして、ゲッセマネの園で祭司や律法学者たちの陰謀によって捕まってから、復活までのイエスの気持ちはどんなだったのかなと思っていました。
 ユダの裏切りから始まって、他の弟子たちも口では上手いこと言って「最後までついていきます」みたいなことを言うのですが、最終的にはみんな散り散りになり、逃げていくわけです。
 そして、十字架の上では、神にまで見捨てられるということが起こるわけです。イエスは孤独を感じられたのではないかと思いました。そして、この孤独ということが、人間にとっては耐え難い苦しみなのではないかと思うのです。
 なぜならば、神が人間を創造された時、どのように創造したかというと「関係を持つ存在」として、創造されました。創世記1章26節には「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」とあります。
 27節には「神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とあります。一人だけ創造したのではなく、複数として創造しているのです。それは、互いの関係を大切にするためなのです。ですから、造られた本来の目的に沿わない時、苦しくなってしまうのです。
 イエスは十字架の上で、孤独を感じられたということは、人間にとっての一番大きな苦しみを味わった、と言っても言い過ぎではないのです。人との関係というものは、よい時もあるし、わずらわしく感じる時もあります。
 しかし、神は多くの場合、人との関係を通して、私たちに様々な事柄を気づかせて下さるし、助けて下さるのです。
 教会という交わりも、人との関係がなければ、どれほど楽なものかと思わされることがあります。しかし、神はイエスの体としての教会を人の手に任せられました。裏切ったり、裏切られたり、傷つけたり、傷つけられたりすることがあります。しかし、慰めや、癒しも、この関係の中で起こされていくのです。
【女の弟子たち】
 イエスが孤独を感じ、苦しんでいる時、弟子たちは何をしていたのでしょうか。男の弟子たちは逃げてしまいましたが、女の弟子たちは遠くから見守っていました。何故なら、構造的な差別社会の中で、彼女たちは孤独にさせられていました。しかし、そこから解放してくれたのがイエスだったからです。イエスによって、生きる目的を与えてもらったということなのです。
 今でもそうかもしれませんが、当時のユダヤ社会では、女性はものの数にも入らない存在でした。男の所有物のように見られていた時代です。聖書においても、人の人数を表す時には「男の数何人」となっていました。
 女性たちは、虐げられ、さげすまれていたのです。しかし、イエスは彼女たちをひとりの人間として見ていたのです。
 彼女たちはイエスに出会うことによって、人間としての尊厳を取り戻したのです。特にマグダラのマリヤは「7つの悪霊を持つ女」として、地域社会から排除され、孤独にさせられていたのではないかと、私は想像します。
 7つの悪霊がどんなものだったのかは分かりません。しかし、それが理由で、彼女の事を考えてくれる人、大切にしてくれる人は、ほとんどいなかったのではないかと思います。
 彼女は悪霊に憑かれているということで、完全に人格が破壊されていたのです。本人の問題ではなく、周りの環境が破壊させたのだと思います。それを、治してくれたのが、イエスだったのです。彼女の心を解放して下さったのです。彼女の喜びと感謝の思いは、本当に大きなものだったのです。
 最後まで、見届けた彼女たちが、復活の朝には最高の特権にあずかりました。彼女たちは復活のイエスに会いに行ったわけではありません。その時は悲しみの中、遺体に香油を塗りに行こうとしていたのです。
 しかし、そこで彼女たちが見たのは、空の墓と御使いの姿でした。そして、御使いは事の次第を彼女たちに告げました。彼女たちは他の弟子たちにそれを伝えるため走って行ったのです。「走って行った」というところに彼女たちの喜びが伝わってきます。
 そこでもう一つ、思いがけないことが起こります。復活のイエスに出会ってしまうのです。会えるという期待は持っていたでしょうが、こんなにすぐに会えるとは思っていなかったでしょう。彼女たちの喜びは最頂点に達していたと思います。
【他の弟子たち】
 興奮した女性の弟子たちの言葉を聞いて、他の弟子たちはどうしたでしょうか。すぐに信じるということはなかったように思います。
 ルカ福音書によるなら「愚かな話のように思われて、それを信じなかった」と記しています。つまり、マリヤをはじめとする女の弟子たちは、イエスが十字架にかかり死んでしまったということで、悲しさのあまり気が変になってしまったと思い、まともに話を聞かなかったのではないかと想像します。
 しかし、エルサレムにいてもしょうがないので、彼らは自分たちの生まれ故郷であるガリラヤに帰っていったのだと思います。もしかすると、頭の隅っこのほうには、マリヤたちが語った言葉が引っ掛かっていたかもしれません。
 でも、イエスがいなくなった今、何をしてよいのか分からないから帰って行ったのです。そして、昔の生活に戻ろうとしたのです。イエスに出会う前の生活に戻ろうとしたのではないでしょうか。
 そもそも「ガリラヤで会える」ということ自体が変な話なのです。もし、復活されるとしても「エルサレムで会おう」なら理解しやすいのです。当時のユダヤにおいて政治、経済、宗教的な中心地はエルサレムでした。そこで復活の姿を現して、律法学者や祭司たちの度肝を抜いてやってほしいと弟子たちは願っていたはずです。
 しかし、イエスの言葉は「ガリラヤ」だったのです。それぞれ土地にはイメージというものがあります。東京の人にとって、大阪というと商売やお笑い、ガラが悪いといったイメージがあると思います。みんなが「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」と挨拶すると思われています。事実とは少し違いますが、そんなものなのです。
 ガリラヤも同じように偏見に満ちていました。異邦人の地であり、何の良いものも生み出さない地と見られていました。しかし、イエスにとってまた弟子たちにとっては、ふるさとであり、生活の場であり、出会いの場だったのです。しかし、だからこそ「ガリラヤ」だったのです。
【ガリラヤで】
 十字架から復活にいたるまで、もっと言うならば、イエスが宣教活動を始められた時から、今にいたるまで、私たちの常識を根底から覆す出来事が続いているのです。
 イエスの語られた福音は、私たちの常識とは違います。私たちの常識は「右のほほをぶたれたら、右の手でぶち返す」のです。「友を愛し、敵を憎む」のです。しかし、イエスは「右のほほをぶたれたら、左のほほを出しなさい」と言われ、「敵を愛しなさい」と言われるのです。
 十字架の惨めな死も、私たちの常識ではただの敗北者です。復活の出来事も信じられない出来事であり、ガリラヤで再会できるという約束も意味が分かりません。
 もっと特別な、世間がアッと驚くような事を期待してしまうのです。しかし、信仰の出来事というのは、特別であると同時に、日常の出来事でもあるのです。 どこか特別なところへ出て行って礼拝する。伝道する。ということもあります。しかし、同じように日常の生活の中に礼拝があり、伝道があるのです。ただし、日常を何も考えずに過ごすならば、日常のままかもしれません。
 そこに神の計画があることを信じ、それを見つけ出そうとするならば変わるのです。神の計画を探し出すことこそが、ガリラヤに行くということなのです。一歩踏み出してガリラヤに行かなければ何も変わりません。
 神は私たちが変わることを求めておられますし、変化するための環境、要素を整えて下さっています。
 パウロはⅡコリント5:13で「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」と語ります。
 復活は古い自分が死に、新しい自分が死を打ち破り、死に勝利して生かされる出来事なのです。イエスは、先にガリラヤに行かれ、私たちが来るのを待っておられます。私のガリラヤで、あなたのガリラヤでイエスにお会いしましょう。そして、新しい目的を見出し、マリヤたちのようにイエスに従うことが出来るなら幸いです。

祈 り
讃 美   新生248 主はガリラヤへ
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
祝 祷  
後 奏                          
報 告
挨拶の時