前 奏
招 詞   ヨハネによる福音書14章6節
讃 美   新生  4 来りて歌え
開会の祈り
讃 美   新生252 喜べ主を
主の祈り
讃 美   新生300 罪ゆるされしこの身をば
聖 書   詩編119編105節
                    (新共同訳聖書 旧約P964)
宣 教   「主と共に歩む」   宣教者:富田愛世牧師
【詩編119編とは】
 4月に入り一週目が棕櫚の主日、そして、二週目の先週がイースターだったので特別なプログラムが続き、今日が実質的な最初の主日となります。
 2023年度の市川大野教会は、主題聖句を詩編119編105節と決め、年間主題は「主と共に歩む」と決められました。教会の歩みは聖書の御言葉によって促されて行かなければならないと考えています。人為的に「こうしたい」「ああしたい」と願ってみたところで、神の計画、みこころに沿ったものでなかったとしたならば、それは実現しないからです。
 今日は、今年度選ばれた詩編119編105節に書かれている御言葉を皆さんと共有し、正しく理解することが出来ればよいと思っています。
 はじめに詩編119編とは、どのような詩なのか、という事から見ていきたいと思います。この箇所を読もうとして、初めに気付くことは「なんて長い箇所だろう」という事ではないかと思います。一つの章で176節もあるところは、他にはありません。聖書通読をしている方にとっては、この箇所に来た時には、少し気合を入れるというか、ちょっとした覚悟が必要になるかも知れません。
 119編は新共同訳聖書にはカッコで「アルファベットによる詩」と書かれているように、ヘブライ語のアルファベットに沿って書かれています。ヘブライ語のアルファベットは全部で22あり、1節は最初の文字であるアレフという字で始まる詩が書かれています。日本語なら「あ」になります。
 そして、一つの段落にアレフなら、アレフで始まる詩が8つ書かれています。この8つというのは、8つの主題について書かれているという事になっています。それは「律法」「定め」「掟」「戒め」「正しい裁き」「言葉」「命令」「約束」となっています。もちろん、中には例外もありますが、基本的には、このような形式で書かれているという事です。
【あなたの御言葉】
 さて、それでは今日の箇所である105節を見ていきましょう。ここは「あなたの御言葉は」という言葉で始まっています。あなたの御言葉、それは神の言葉という事です。
 現代においては、私たちは聖書を神の言葉として信じ、受け止めています。この姿勢がキリスト信仰の基本だと思うのです。特に私たちバプテスト教会では聖書以外の信条や信仰告白を第一義的なものだとは考えていません。時々「聖書にはこう書いてある。けれども私たちの信条はこうです」という言い方をする方がいますが、私たちは聖書のみが信仰の規範だと信じています。
 私が神学校で学んでいた時、「聖書が先か、キリストが先か」という議論をしたことがありました。私はキリストが先だと思っていたのですが、聖書信仰という立場に立つ、多くのプロテスタント教会では聖書が先だという事が答えでした。なぜなら、聖書の証言がなければ、私たちはキリストを知ることが出来ないからだというのです。
 確かにその通りだと思いましたが、聖書を読んだことがないのに、唯一の神の存在に気付き、後からイエスの話を聞き、この方こそ真実の救い主だと理解できたという人の話を聞いたことがあるので、聖書が先だという事も絶対的な真実ではないと思っています。何事においても例外はあるだろうし、聖書が先か、キリストが先かという選択をしなければならない理由もないのではないかと思っています。
 ただ、神学校での学びにおいては、物事を感情的だったり、思い込みだったりという事で判断するのではなく、理論的に整理するということも学ばなければならないので、そのような学びが必要だったのだろうと思います。
 今日のテーマから見ていくならば、主と共に歩むためには、主の御言葉、つまり聖書の言葉に絶対的な信頼を置き、聖書の言葉に従うという姿勢をハッキリとしなければならないという事だと思います。
【わたしの道、わたしの歩み】
 次に「わたしの道」「わたしの歩み」という言葉が続きます。わたしの道、わたしの歩みとは、私たちの人生そのものを指しています。
 私たちはそれぞれ神によって生かされています。中には生かされているのではなく、自分で生きているのだと主張する方がいるかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか。誰ひとりとして、自分で意識して生きている人はいないと思うのです。
 外的な力によって自分の命を絶つことは出来るのかもしれませんが、自分の意思で心臓を止めることは出来ないと思います。息を止めることですら無理だと思います。1分くらいならば、止めることも出来るでしょうが、それ以上になれば、苦しくなって息をしてしまうと思うのです。自分の勝手にはならないのではないでしょうか。
 さらに、私たちが生かされているという事は、一人ひとりに目的が与えられているという事なのです。4月になってNHKの朝ドラが新しくなりました。先々週の水曜日だったと思いますが、主人公の少年に対して大人たちが「生まれてこない方がよかった」と言っていたのを聞いてしまい、主人公は落ち込んで近所の神社で「かみさんのばかやろ」と言って泣いていたところ、ディーンフジオカという俳優が扮する坂本龍馬が「生まれてこなければよかった命は一つもない。同じ命も他にはない。己の心を燃やして何か一つ成せ。お前も大きゅうなったら何でも出来るようになる」と言って励ましていました。「大きゅうなったら」というところはチョッと引っ掛かりますが、とても大切なことだと思いました。
 私たちには果たすべき使命、働きが与えられているという事なのです。ただ、これだけだと「何かしなければならない」とか「成果を出さなければならない」というような受け止め方にもなってしまいます。
 今から30年くらい前に「人生を導く5つの目的」という本が出版されました。アメリカのカリフォルニアにあるサドルバック教会の牧師をしているリック・ウォレンという方が書いた本で、ベストセラーとなった本です。
 そこには、神は目的を持って、一人ひとりの人を創造されている。だから、私たちはその目的に気付かなければ、むなしい人生になってしまうと書かれています。それは、必ずしも何かをしなければならないという事ではなく、あなたの存在そのものが神の喜びなのだという事なのです。
【道の光、灯】
 「人生を導く5つの目的」という本については、またの機会にお話させていただければと思っていますが、大切なことは、私たちの人生という道、歩みにおいて、神の言葉、聖書の御言葉は必要不可欠なものであるという事を忘れてはいけないのです。
 そして、神は私たち一人ひとりをどうでもいい存在、その他大勢の一人ではなく、かけがえのない、一人の尊い存在として愛しておられるという事なのです。
 ただ、神に愛されていることを知り、目的を持って人生を歩んでいたとしても、何かの拍子に、道に迷ってしまうことがあります。そのような時は、真っ暗闇の中を歩んでいるように感じると思います。だからこそ、光が必要となるのです。
 光という言葉を聞いて、何か思い出すことはないでしょうか。私は光と聞くとヨハネによる福音書の1章を思い出します。4節には「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」とあります。また、9節には「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」とあります。
 さらに「言は神と共にあった、言は神であった」という事です。つまり、詩編119編105節はイエスを指し示しているのです。イエスというお方の本質は言であり、光なのです。
 ユダヤの民にとって神という存在は、畏れ多い存在で、遠い存在でした。しかし、神はイエスを通してインマヌエル、神は共にいるという事を示してくださいました。そして、光となって、今も私たちの歩みを照らし、私たちの人生という旅を導く灯として、共に歩んでくださるのです。
 今年度、市川大野教会は「主と共に歩む」という主題をいただきました。とても素晴らしい主題だと思います。この言葉を私たちは主体的に受け止める必要もありますが、その前に主が私たちと共に歩んでくださっているという、大前提を忘れてはいけないのです。

祈 り
讃 美   新生131 イエスのみことばは
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
祝 祷  
後 奏
報 告
挨拶の時