前 奏
招 詞   創世記1章3節
讃 美   新生  4 来りて歌え
開会の祈り
讃 美   新生244 救い主にぞわれは仕えん
主の祈り
讃 美   新生326 ガリラヤの風
聖 書   フィリピの信徒への手紙1章1~2節
                    (新共同訳聖書 新約P361)
宣 教   「恵みと平和」   宣教者:富田愛世牧師
【喜びの手紙】
 今日からフィリピの信徒への手紙を続けて読んでいきたいと思っています。この手紙は別名「喜びの手紙」と呼ばれていて、「喜びなさい」という言葉が何回も出てきます。この手紙を書いた人はパウロだと考えられていますが、どのような状況の中で書いたかというと、獄中だったと伝えられています。
 ただ、獄中という事ですが、この手紙はローマで捕らえられていた時に書かれたと考えられているので、いわゆる牢獄というよりも、軟禁状態と考えた方がよいのではないかと思われます。そして、1節に「パウロとテモテから」とあるように、パウロの話を、テモテが口述筆記したようですから、一人で牢獄の中にいたのとは違うのです。
 そして、この手紙を読む時に注意しなければならないこととして、これは手紙であるという事です。当たり前のように思われるかもしれませんが、手紙ではなく聖書だと思って、いらないことを付け加えて読んでしまう事があるので注意してほしいと思います。
 世の中には様々な宗教がありますが、キリスト教の大きな特徴の一つは「喜ぶ」という事なのです。もちろん他の宗教においても「喜んではいけない」などというような決まりはないと思いますが、喜ぶことよりは、もっと大切な事がたくさんあるでしょう、という考え方が大多数なようです。そして、初心者の時は喜んでもいいけれど、ある程度、信心を重ね、信仰的にレベルアップするためには精進したり、修行を重ねたりして、難行、苦行をくぐり抜けなければならなくなるようです。
 それに対してイエスを信じる信仰においては、パウロが語るように「いつも喜んでいなさい」という呼びかけが大切になってくるのです。
 今、あえてキリスト教と言わずにイエスを信じる信仰と言いましたが、キリスト教という信仰、また、教会という組織に入ってしまうと「~しなければならない」という考え方が出てきてしまい、喜びよりも義務的なものを大切にしてしまう傾向が強くなるようです。しかし、福音書の中で一般民衆と共に過ごされたイエスの足跡をたどるならば、伝道しなければならないとか奉仕しなければならないとは語っておられません。
 パウロはそのようなイエスの語った福音、イエスの生き様としての福音を大切にし、それを手紙として教会に書き送ったのです。
【キリスト・イエスの僕】
 今日は1、2節をお読みしましたが、この部分は挨拶です。以前、こんな挨拶に何か意味があるのかと質問されました。私は聖書に書かれている言葉には無駄はないと思っています。それが家系図のように名前が羅列してあるだけでも、祭壇の寸法のために数字が並べてあったとしても、そして、ただの挨拶でも、誰々によろしくでも、その背景に何があるのかを調べていくなら、大きな意味が隠されているのです。
 この挨拶の中で、パウロは自分たちを「キリスト・イエスの僕」と呼びました。ここにはパウロの大きな決意が含まれています。パウロは自分を神の僕ではなく、キリスト・イエスの僕だと語るのです。
 当時、ユダヤ人社会では神の僕という言い方が一般的だったようですが、ヘブライ語聖書では、光栄ある呼称として用いられていました。本来の「僕」という意味で使われたのでなく、意味が逆転していたので、パウロは使わなかったのかもしれません。
 現代の教会の中では、キリスト教の僕、教会の僕、聖書の僕となっているクリスチャンが多いような気がします。キリスト教や教会の僕というのは、何となく教理や教義、規則や戒律、そういった決め事を第一にするイメージを持つのではないかと思いますが、聖書の僕というのは、それこそ聖書的で良いのではないかと思われるかもしれません。しかし、聖書という時、一字一句書かれている文字として受け止めるならば、そこには間違いが起こってしまいます。
 私も時々、言ってしまいますが「聖書に書かれている」と言う時、文字としての言葉ではなく、その箇所が言おうとしている内容として理解しなければなりません。フィリピの手紙で「喜びなさい」と言われる時、文字として理解するならば、悲しい時にも無理やり喜ぶように勧められていると感じるかもしれません。しかし、そうではなく、悲しい時は悲しいのです。ただ究極的な喜びというものを、私たちは持っているのだという告白として「喜びなさい」と命じられるのです。
 次に、この僕という言葉ですが、これは奴隷とも訳すことのできる言葉が使われています。僕や奴隷というのは主人の所有物で、主人に対して絶対服従。他の何ものにも従わないという意味なのです。
 先ほどのユダヤでの一般的な使われ方ではなく、イエスは本当の意味で神の僕でした。そして、神だけでなく、神の創造されたこの世界、その中に生かされている一人ひとりの人間にも仕えられました。それは神が愛された一人ひとりの人間をイエス自身も愛されたということなのです。
【パウロとテモテ】
 パウロはそのような神の愛という恵みを感じることによって、少しずつ変えられていきました。そして、この手紙はパウロとテモテによって書かれています。初期のころのパウロならば、伝道旅行の足手まといになる者は切り捨てました。
 しかし、ここでは若いテモテを共に働く者として認めているのです。未熟な部分がたくさんあったと思いますが、まず、それを受け入れ、テモテの賜物を発揮させているのです。つまり、一人で事を進めようとするのではなく、チームでの働きへと成長しているのです。
 パウロとテモテというチームは誰に宛ててこの手紙を書いたのでしょうか。もちろん、それはフィリピ教会に宛てています。しかし、ここにはもっと豊かな広がりのある言葉が書かれています。それは「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち」なのです。
 私たちは時々、誤解してしまいますが、聖なる者とは「聖人」を意味するのではありません。聖という言葉は「分ける」という意味で、ここでは神に選ばれた者ということです。
 神に選ばれるというと、何か大きな特権のように感じ、優越感を持つ人がいるかもしれません。間違いではありませんが、大きな勘違いです。ユダヤの選民思想はそのような勘違いによって、大きな誤りとなってしまいました。
 クリスチャンにもそういう勘違いがないか注意しなければなりません。神の選びに条件や基準があるでしょうか。神の選び、救いは無条件に与えられるものです。愚かな教会では「あなたは救われている」「あなたはまだ」などというような差別が平気で行われています。誰が神なのか、真剣にへりくだって考える必要があります。私たちは感謝して受けるだけで構わないのです。
【恵みと平和】
 最後に2節では当時の手紙として定型的な挨拶の言葉が述べられています。しかし、ここでパウロは「恵みと平和」が「神から」ではなく、また「イエス・キリストから」でもなく「神と主イエス・キリストから」と言って併記しているのです。
 あなたがたに与えられる「恵みと平和」が神からだけでなく、また、イエス・キリストからだけでもなく、神と主イエス・キリストからとなっているのです。神だけでは足りないのでしょうか。イエス・キリストだけでは足りないからなのでしょうか。
 そういうことではありません。足りるとか、足りないという事ではなく、時間的な継続という事なのです。祝福として与えられる「恵みと平和」は永遠の時を支配される神から与えられるものです。
 そして、この「恵みと平和」は抽象的なものではなく、イエスがこの世に来られたという事実によって現実のものとなったという事なのです。永遠を支配される神からのものであり、それを人として、この世に生まれ、私たちと同じように生活されたイエスによって、具現化されたという事なのです。
 福音の出来事、キリスト・イエスの出来事は、抽象的な、理想を語るだけの事柄ではありません。もちろん、イエスの生涯を見るならば、理想を語るだけではなかったという事実を知ることが出来ます。
 そして、イエスの十字架の死と復活という事は、時間的な経過が、ある一点で終わってしまう。止まっているという事ではなく「今も、後も、永久まで」歴史の中で現実に起こり続けていくという事を意味しているのです。

祈 り
讃 美   新生586 すばらしいこの日
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
祝 祷  
後 奏
報 告
挨拶の時