前 奏
招 詞   詩編28編7節
讃 美   新生  4 来りて歌え
開会の祈り
讃 美   新生 86 輝く日を仰ぐとき
主の祈り
讃 美   新生426 語りませ主よ
聖 書   フィリピの信徒への手紙1章3~6節
                    (新共同訳聖書 新約P361)
宣 教   「最初の日から」    宣教者:富田愛世牧師

【思い起こす度に】
 コロナ危機となって、まる3年が経ち、この春から様々な対策が少しずつ緩められ、5月8日からは感染症法上では5類という分類になります。教会でも感染対策は続けていきますが、少しずつ、活動の幅を広げていこうとしています。
 今日も、午後にはCSのピクニックに出かけますが、実は私にとっては大野教会でのピクニックは初めての経験となります。4年前に就任したのが7月だったので、3月から6月までの経験は、コロナ対策の中での経験だけなのです。
 コロナ対策の中で、教会にとって一番大きなダメージがソーシャルディスタンスと一般的に言われてきた人との距離の問題だと思います。人との間に距離をとらなければならないし、食事も一緒に出来ないという事は、教会の中で使われる言葉として「交わり」が希薄になってしまい、寂しさを感じる方が少なくなかったと思います。
 私も人と会うことが少なくなってしまい、寂しい感じはするのですが、反対にいろいろな方の事を思い起こす時となったように感じているのです。「あの人はどうしているかな」などと思って、連絡を取って見たりしました。
 今日の聖書は「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に」という言葉で始まっています。教会では日曜日ごとに礼拝をしていますが、皆さんは、その間の6日間に、誰かの事を思い起こすことがあるでしょうか。思い起こす人もいれば、思い起こさない人もいるでしょう。どちらが良いという事ではなく、そういうことがあるという程度に受け止めていただければ良いです。
 さらに、思い起こした時、私たちの心には、どのような思いが浮かぶでしょうか。ある人はすぐに行動に出るでしょうし、別の人は心に思うだけで済ませるかもしれません。様々な変化が心の中に起こるのではないかと思います。
 愛おしく思ったり、心配したり、感謝したり、時には憎しみが燃え上がる時もあるかもしれません。どの心の変化も悪いものではなく、人間として当然の心のあり方だと思います。パウロはどうだったのか。今日の箇所を見ると、パウロはフィリピ教会の人々を思う時、神に感謝したようなのです。
【祈る度に】
 そして、思い起こすと同時に一つの行動に出ているのです。それは、祈るという事なのです。以前「祈っています。ウソ、本当」というお話をしました。覚えている方もいると思いますが、私たちはあいさつ程度の気持ちで「祈っています」という言葉を使ってしまうことが多いと思います。
 もちろん、それが悪いことだと言っているのではありません。ただ「祈っています」といったのなら、本当に祈る方が誠実なのではないかという、問いかけとして「祈っています。ウソ、本当」という文書を受け止めたいと思うのですが、パウロは、思い起こす度に神に感謝し、祈る度に喜びを持って祈っているというのです。
 この手紙を書いた時、パウロはローマで裁判を受けるため、軟禁状態にいたと考えられています。ある程度の自由はありましたが、今のコロナの状況に似たところがあったのではないかと思うのです。顔と顔を合わせて、会うことは出来ない。だから、思い起こしていたわけです。
 そして、思い起こした時に、その人のために祈ったのです。祈ることによって、遠く離れていたとしても、その人の事を近くに感じたのかもしれません。何故なら、具体的に祈る時、私たちは様々な想像力を働かせるはずです。今頃彼は、彼女は何をしているのか、元気でいるのか、ご飯食べているか、いろんなことを想像して、思いめぐらすわけです。
 パウロにとっては、そのような祈りが「喜び」だったのです。心配するのが喜びだなんて、不謹慎だと思われるかもしれませんが、クリスチャン同士の交わりにおいて、究極的な喜びを持っているという事は、表面的な事よりも大切なことなのではないでしょうか。祈りの内容が「喜び」だという関係は、とても素敵な関係を表していると思います。
 ただ、喜びという事を強調すると「脳天気な人だ」と批判されることもあります。クリスチャンに限らず、苦しみの好きな宗教者がたくさんいます。もちろん、本当に好きなわけではないでしょうが、苦しい顔をしている方が「らしい」と思う人がいます。そういう人やそういう宗教では、祈りの内容も「苦しみから…」というものが多いように感じます。
 しかし、パウロは喜び祈っていると告白しています。なぜなら、究極的な喜びを知っているからなのです。ですから、パウロのように胸を張って喜んで構わないのです。
【最初の日】
 そして、喜ぶという事には理由があるのです。それはあなたがたが最初の日から今まで、福音に与っているからなのです。
 考えてみてください。パウロという人は、この同じフィリピの信徒への手紙3章を見ると、生まれて八日目に割礼を受け、ヘブライ人の中のヘブライ人で、律法に関してはファリサイ派の一員だったのです。
 とにかく一生懸命に律法を学び、律法の規定に従って、様々な規律を忠実に実行し、自分に対しても、他人に対しても厳しく接して、神に近づき、神から義と認められるように頑張っていたのです。精進していたのです。しかし、パウロの心に平安はありませんでした。
 そんなパウロが、人を惑わす教えだと確信し、迫害していたキリストの福音に出会ってしまうのです。復活のイエスに出会った時、パウロの目からうろこが落ちて、本当の救いを知ることになるのです。それはイエスが語り、生きた福音なのです。
 最初の日とは、フィリピの人々が初めてパウロから福音を聞いた日のことです。パウロにとって福音とは、様々な修行を重ね、精進してきたけれども得ることのできなかった平安でした。しかし、復活のイエスに出会い、変えられたパウロはその福音を告げ知らせる者となったのです。そして、フィリピの人々にその福音を伝えたのです。
 その日何が起こったのか。フィリピという町はマケドニア、現在のギリシア地方にある都市で、非常に繁栄していました。そして、当然の事としてパウロからすれば、異教の地だったわけです。パウロにとっては異教の悪しき習慣に縛られていました。それだけでなく、世のしがらみにも縛られていた、そんな人々に福音が伝えられたのです。
 パウロが語る福音を聞いた人々は、今まで自分たちを縛っていたものから解放され、苦しみや悩みの中にあった者たちに喜びが与えられたのです。福音を聞くという事は、このような変化が起こるという事なのです。
【パウロの確信】
 福音が伝わり、福音によって解放され、喜びが与えられ、変えられたなら、その人は黙っていることはできないはずです。もちろん、個人差はあるでしょう。ですから、お話をすることが好きな人にとっては、黙っていられないはずです。そういう人は、自分に起こった素晴らしい出来事を独り占めすることが出来ず、誰かれ構わず、自分の経験した喜びを語り始めるのです。
 また、ある人は同じ言葉を用いるけれども、別の方法として文章を用いるという事もあるでしょう。実際に聖書の中にある手紙の多くはパウロによって書かれました。パウロは使徒言行録に記録されているように伝道旅行をしているので、イエスのように会堂や人の集まる場所で語っていたかも知れませんが、語るよりは文章を書くことを得意としていたようです。
 言葉を用いるだけでなく、別の方法で、その喜びを表現することもあります。ある人は音楽を用いて、福音の喜びを伝えるようになるでしょうし、ある人は絵画や写真といった映像を用いた方法で、その喜びを伝えるようになるのではないでしょうか。
 さらに、そのような表現だけでなく、本人が意識しようがしまいが、その行動、生き様そのものに福音の喜びが染み出てくるという事もあるのです。そういう人の周りには不思議と人が集まってくるようになるのかもしれません。
 フィリピ教会の中で始められた「善い業」、それは、福音が語られ、それがただ語られるだけで終わるのではなく、聞いた者たちによって、様々な方法で再生され、さらに多くの人々に向けて「善い業」が始められるという出来事が続いていくとパウロは確信しているのです。
 キリストによってもたらされた「善い業」は途絶えることなく、人から人へ、そして、時代から時代へと続いていくのだとパウロは確信し、神に感謝するのです。

祈 り
讃 美   新生576 共に集い
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
祝 祷  
後 奏
報 告
挨拶の時