前 奏
招 詞   イザヤ書35章1~2節
讃 美   新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
讃 美   新生 93 たそがれの空よりも
主の祈り
讃 美   新生415 わが主よ ここに集い
聖 書   フィリピの信徒への手紙1章7~8節
                      (新共同訳聖書 新約P361)
宣 教   「恵みにあずかる者」   宣教者:富田愛世牧師
【聖書信仰】
 聖書信仰という言葉を聞いたことがあるでしょうか。きっとバプテスト教会に長くおられる方は聞いたことがあると思います。バプテスト教会が大切にしている特徴の一つが聖書信仰というものなのです。それでは聖書信仰とはいったいどういうものなのでしょうか。
 聖書信仰とは「聖書に書かれている言葉をそのまま信じることだ」と言われることがありますが、そんなことができるのでしょうか。なぜ「できるのでしょうか」などという問いかけをするのかというと、聖書を丁寧に読み進め、そこに書かれている事柄を文字通りに受け止めるなら様々な矛盾がでてくるからです。
 たとえば、マタイ5章9節でイエスは「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と語りますが、同じマタイ10章34節では「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と語ります。イエスは平和を実現するのか、それとも剣を持って戦うのか、分からなくなってしまいます。
 この2つの箇所は矛盾しているのかというと、文字だけを見れば矛盾していますが、背景にある言葉の意味、内容を理解するならば矛盾しているわけではありません。今、ここでそれを説明すると、それだけで終わってしまうので、今日は説明できませんが、矛盾ではないということだけ頭に入れておいていただきたいと思います。
 このように、聖書は文字通りに読むというより、文脈に沿った言葉として読まなければ、誤解を生んでしまうのです。聖書信仰とは、そこで語られている言葉を大切にして、その背景にある神の御心を知ろうとする信仰姿勢なのです。そのためには聖書学と呼ばれる学びや考古学による発見にも注意していかなければならないのです。
 ただ、キリスト教にはたくさんの教派があり、すべてが聖書信仰を第一義的なものとしているわけではありません。他の教派では伝統や儀式、教義、規律を第一義としているところもあるのです。そして、それらも大切な事なのです。
 10人いれば、それぞれに大切にすることは違います。Aさんにとって大切な事がBさんには大切でないこともありますが、大切な事には変わりありません。これだけというものを作ってしまう事に問題が生じるのです。そういう意味で聖書信仰を絶対化してはいけないと思います。ただ、バプテストはこれを第一としているということなのです。
【共に恵みにあずかる者】
 イエスの生きた時代にもユダヤ教の中では似たような事があったようです。ファリサイ派の人々は律法厳守を第一にした律法主義、サドカイ派の人々は伝統を重んじる祭儀中心主義、そして、エッセネ派の人々は精神性を重んじていたように思えます。
 そのような中でイエスはどうだったのでしょうか。一説によるとイエスはバプテスマのヨハネと共に、エッセネ派の一員だったと言われていますが、確かな事は分かりません。
 しかし、ヨハネ福音書の冒頭を読むと「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と書かれているように、イエスのことを「ことば」だと語るのです。そこから推測するならば、やはりイエスは「ことば」を大切にした「ことば」の人だったと見ることが出来ると思うのです。
 そして、復活のイエスによって、その生涯を変えられたパウロも同じように、言葉を大切にしていたのではないかと思います。ただ言葉を大切にすると言っても、それをどう解釈するかが重要なポイントになってきます。パウロという人は信仰者として、積極的に言葉を解釈していたように感じます。積極思考、ポジティブシンキングだったと思うのです。
 7節を見ると「このように考えるのは、当然です」と語っていますが、何が当然かというと、それは「どんな時もあなたがたを共に恵みにあずかる者と思い、心に留めている」というのです。パウロにとって、この手紙を書いている「時」とはどこかの牢獄に監禁されていたかもしれない「時」なのです。
 常識的に考えるなら、恵みではなく苦難の中にいましたが、それでもパウロにとっては、この手紙全体を貫いている一つのテーマである「喜び」の中にあるというのです。苦難の中にいて苦しんでいるというのではなく、喜んでいるというのです。
 ただ、ここで誤解してはいけないのは、苦しんではいけないと言っているのではありません。苦しい時は苦しいと言うことも大切です。しかし、この状況はパウロにとって喜びだったというのです。
 なぜなら、ローマ帝国の役人たちや主だった人たちの前で、福音を語る機会が与えられたのです。パウロは裁判を受ける時、自分の身に起こった出来事を証ししました。つまり、福音を語る機会が与えられたということです。そのような機会こそがパウロにとっては喜びなのです。
【キリスト・イエスの愛の心】
 続けてパウロはどれほど「あなたがた」を思っているかを表すために「キリスト・イエスの愛の心で」愛していると語ります。日本語の愛という言葉にはとても大きな広がりがあります。自分が大好きだという自己中心的な愛もあれば、看護師や介護士のような献身的な愛も、同じ愛という言葉で表現されます。
 また、内容的にも相手のことをかわいがって、甘やかすような愛もあれば、反対に可愛さ余って憎さ百倍のような妬みに似た愛や嫌いになってしまうような愛まで、多種多様な愛があると思うのです。
 ここでパウロが語るのは、キリスト・イエスの愛です。イエスの愛とは働きかける愛を意味しています。受け身の愛ではなくこちらから働きかけるというのです。ただ、働きかけるということをイメージすると、私はおせっかいな人をイメージしてしまう事があるのですが、イエスはおせっかいではなかったと思うのです。
 おせっかいというのは相手の気持ちを考えるのではなく、自分がしたいようにするのです。それに対してイエスは相手のことを考えていたと思います。「他者感覚」という言葉があります。相手の立場に立って考えたり、相手にとって必要なことは何かを考えることを、そう呼ぶのですが、イエスの姿勢は他者感覚に優れたものだったのではないかと思います。
 ただ、この他者感覚も表現の方法は様々だと思います。相手の事を考え、相手の必要を考えたうえで、相手の出方を見てから行動するというものから、相手の必要を予想して、要求する前に行動するという積極的なものまで、幅があると思います。
 イエスの姿勢は臨機応変だったでしょうが、基本的には相手の出方を見てから何かするというより、積極的に働きかける愛だったように思います。また、その結果として、相手が答えてくれるかどうかではなく、行動していたのではないでしょうか。
 パウロも同じように「あなたがた」が答えるかどうかではなく、「あなたがた」を心に留めていると語るのです。
【イエスなら】
 さらに、この気持ちを「神が証ししてくださいます」と語ります。とても大胆な言葉だと思います。自分の思いや行動について、神がそれを証明してくれるなどという事を普通の感覚では言い切らないと思うのです。
 しかし、パウロは神が証ししてくださる。神が証明してくださるのだと語るのです。よっぽど自信があるか、それともおバカさんなのかのどちらかだろうと思います。
 ただ、聖書を読んでいると、多くの登場人物に共通するものがあるように感じるのですが、それは神に対する絶対的な信頼感です。世間の常識などをはるかに超えた、バカみたいな信頼感を神に寄せているように思えるのです。
 パウロの語る「神が証ししてくださいます」という言葉の背景には、神に対する絶対的な信頼感があると思います。この後に出てくる21節で「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」という言葉があります。
 この言葉に込められているように、パウロの内にはイエスが生きているのです。自分の努力や精進によって信仰を確立させようとしていたパウロに向かって「なぜ、わたしを迫害するのか」と語りかけ、アナニアを通して「わたしが選んだ器である」と語り、パウロの心を解放し、平安を与えられたのです。
 パウロはことを成す時、必ず内なるイエスに問い続けていたのではないでしょうか。「イエスならどうするだろうか?」と自問自答しながら、内なるイエスに押し出されて働いていたのではないでしょうか。
 私たちはパウロのようにはなれないでしょう。しかし、私たちに与えられている信仰とは、キリストの信仰によって与えられているものなのです。ですから、私たちの内にも復活のイエスは生きているのです。
 そして、私たちは誰かのようにではなく「わたしが選んだ器」として、一人ひとりに目的が、使命が、働きが備えられているのです。

祈 り
讃 美   新生377 ああ麗しきシオンの朝
主の晩餐  
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏