前 奏
招 詞   イザヤ書49章4節
讃 美   新生 26 ほめたたえよ造り主を
開会の祈り
讃 美   新生123 果てなき大空
主の祈り
讃 美   新生463 こころの扉
聖 書   フィリピの信徒への手紙2章12~16節
                       (新共同訳聖書 新約P363)
宣 教   「何を誇るか」    宣教者:富田愛世牧師
【だから】
 今日の箇所は「だから」という言葉で始まっています。つまり、2章11節までに語られたことに対する一つの結論として書かれているので、初めに前回の所を少し振り返ってから本題に入っていきたいと思います。
 パウロがここで「だから」と語るのは、イエスが十字架の死に至るまで神に従順に従われたことを指しています。2章6節から読んでみると「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と書かれています。
 ここに書かれているイエスは栄光の姿とは程遠い、しいたげられた者の姿、社会の底辺にいるような姿なのです。しかし、それは自分を卑下するのではなく、へりくだった姿として、私たちの前に模範となっているのです。
 聖書の訳はなるべく柔らかい言葉を使っていますが、ギリシャ語ではもっと直接的な、厳しい言葉が使われていることが多いのです。ここで「僕」と訳される言葉も本来は「奴隷」と訳される「デューロス」という言葉が使われているのです。
 キリスト教会は2000年の歴史の中で、最初はユダヤ教の異端、ローマ帝国から迫害される邪教として扱われましたが、神の哀れみの中で、ローマ帝国に認められ、世界宗教となって、欧米文化の基礎となっていきました。それは恵みであると同時に、キリスト教の堕落の始まりでもあったのではないかと思うのです。
 なぜならば、多数派となってしまったキリスト教において、イエスの姿は栄光に輝く面が強調されすぎて、社会の底辺にいる姿、へりくだった姿を見失ってしまうことが多いような気がするのです。
 パウロはユダヤ教においてエリート中のエリートでした。しかし、復活のイエスに出会って180度、方向転換しました。今までの価値観を全く変えられてしまったのです。本当の意味での悔い改めを経験したパウロが目指すイエスの姿は「へりくだる」者だったのです。
 イエスご自身も福音書の中で「偉くなりたい者は、仕える者になりなさい」と語り、そのように生きられ、徹底して人々を受け入れたのです。
いわゆる宗教者たちが罪人として排除した徴税人、遊女、異邦人を招き、共に飲み食いしました。偉い人に仕えるのではなく、社会の底辺に追いやられた人たちに仕えたのがイエスの姿なのです。
 現代のキリスト教会はそのようなイエスの姿を模範としているでしょうか。少し厳しい問いかけかもしれませんが、そういう事を前提として、この12節以降が一つの結論として書かれているのです。
【神を見る信仰へ】
 パウロは「だから、愛する人たち」と言ってフィリピ教会の人々に語りかけます。それは、本気で愛しているからこそ、本気でキリストに似た者となってほしいと願っているのです。
 フィリピ教会とパウロの関係はとても親密なものだったと予想されますが、それはパウロにとってもヨーロッパでの最初の宣教地であり、どのくらいの期間滞在したのかは、分かりませんが、教会が創設される時に共に働き、その後も何度も訪ね、労苦を共にしたと思われます。
 そして、今までは自分が一緒にいて、信仰の模範となっていたが、囚われの身となった今は、そこに行くことができないので「なおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と勧めています。
 ある意味でパウロは丁寧に、フィリピ教会の人々の信仰を指導していたように読み取れます。しかし、丁寧な指導というのは、時として甘えさせてしまうことになるのかもしれません。教育的な配慮として、突き放す時もなければならないのだと思うのです。
 フィリピ教会の信仰を成長させるためには、パウロという人を見るのではなく、神を見上げるようにならなければならないのです。もちろん、ここではパウロがそうしたというより、投獄という状況がそうしたのかもしれません。しかし、そこに神の計画があったという事実に気付くことも大切なのです。
 13節には「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」と書かれています。信仰を成長させるために何をすればよいのか、今は分からないかもしれません。しかし、パウロが投獄されたことによって、フィリピ教会の人たちが神に目を向けるようになったように、神は内面に働き私たちを押し出して下さるのです。
【不平や理屈】
 続く14節でパウロは「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」と突然語りだします。伝統的な解釈の中では、この背景には出エジプトの物語で不平や不満を訴えるイスラエルの姿があったのではないかと言われています。
 イスラエルの民はエジプトでの不自由な生活から解放されたいという願いを神の前に訴えました。そして、神はその願いと訴えを聞き届け、モーセという指導者をたて、エジプトから脱出するという計画を立ててくださいました。ところが、イスラエルの民は目の前に困難な状況が立ちふさがると、すぐに不平を言いだし、神に頼ることを忘れてしまうのです。
 しかし、神は哀れみを持って、神に逆らうイスラエルを守り、その願いに対して最善の答えを与え続けてくれました。イスラエルが不平を言ったのは、一度や二度ではありませんでした。何度も何度も不平、不満を言い続けていたのです。
 フィリピ教会にも同じように不平を言い、理屈をこねる人々がいたということでしょうか。もちろん、どんなに素晴らしい教会であろうが、そこは罪人の集まりですから、多少は不平を言う人がいたと思います。しかし、特別問題になるようなことがあったと読み取ることはできません。
 フィリピ教会に、不平や理屈をこねる人がいたということではなく、いつでもそうなる可能性があるので、注意する必要があるとパウロは警告しているのです。
 そして「行いなさい」と書かれているのです。この言葉は13節の「行わせておられるのは神であるからです」という言葉にかかっています。これは命令や「行わなければならない」という義務ではなく、神が「行え」と導かれることに対しては「不平」を言うのではなく、また、社会的な常識はこうだとか「理屈」を言うのではなく、導かれるままに行動しても大丈夫だよという勧めではないかと思うのです。
 現代の教会は、そういうところであまりにも臆病になっているような気がします。行き過ぎた熱狂主義やカルト的な事をしろと言っているのではありません。内に働く感情や情熱に対して、敏感に、そして、素直に行動しても良いのではないでしょうか。
【パウロの誇り】
 続けて、15節からは「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 命の言葉をしっかり保つでしょう」と語ります。
 これはフィリピ教会に対するパウロの大きな期待だと思います。今の時代は様々な誘惑に満ちているが、あなた方はそれに負けず、かえって、世にあって星のように輝いてほしいと語ります。親しい関係性がなければ、期待に押しつぶされそうな感じもしますが、パウロとフィリピ教会の関係においては、そうはならないと思います。
 人間的な努力に頼ってそうしなさいとパウロは語っていませんし、フィリピ教会の人々もそのような受け止め方はしていないはずです。
 そして16節では「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」と締めくくっています。
 そのように成長したフィリピ教会を見ることによって、今まで走ってきたことが無駄ではなかったと確信し、フィリピ教会を誇ることができるようにと願い、それを確信しているのです。
 その確信はどこから来るのでしょうか。それは、人の業だけでなく、仕える者の姿をとり、その模範を示されたイエスが働いてくださるという、聖書の約束から来るのです。

祈 り
讃 美   新生569 君が始まる
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏