前 奏
招 詞   詩編118編24節
讃 美   新生 26 ほめたたえよ造り主を
開会の祈り
讃 美   新生104 雨を降り注ぎ
主の祈り
讃 美   新生507 主の手に委ねて
聖 書   フィリピの信徒への手紙2章17~18節
                    (新共同訳聖書 新約P363)
宣 教   「喜びなさい」
   宣教者:富田愛世牧師
【喜びとは?】
 今日は17、18節の2節だけを読んでいただきました。聖書全体の流れから見ると12節から18節までが一括りとなっていて、新共同訳聖書によれば「共に喜ぶ」という小見出しが付けられています。前回は12節から16節までを読み「何を誇るか」というタイトルを付けました。
 パウロにとっての誇りとは、フィリピの地に教会が建て上げられ、その教会がしっかりとした信仰の土台の上に建っているという事が誇りだというのです。
 そして、その教会は信仰による喜びに溢れているというのです。しかし、ここで語られる「喜び」とはいったいどのようなものなのでしょうか。フィリピの信徒への手紙を読み始めてから、そのような問いかけは何回か出てきていると思います。つまり、これは根本的な問いかけで、何回でも振り返って確認することが大切だと思うのです。
 私たちの周りには様々な喜びがあります。普通にというか、何も考えずに喜びという時、それは自分の欲求が満たされることによって起こる感情的なものだと思います。
 ある人は、そのような一時的、感情的な喜びを「安っぽい喜び」というかも知れません。しかし、人間にとって、そのような喜びも大切なものだと思います。感情を素直に表すことはとても大切なことです。もし、それを禁じるならば、心が傷ついてしまいます。

しかし、一方でパウロが語る「喜び」とは、根本的なものであり、一時の感情によって左右されるようなものではありません。そのような喜びについて17節から「更に」と言って語り始めているのです。
【礼拝】
 17節を読むと「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。」と書かれています。ここには、そもそも礼拝とはどのようなものなのかという事とパウロの覚悟のようなものが語られているのです。
 「そもそもの礼拝」と言っても、今、皆さまがイメージする礼拝とこの箇所で語られる礼拝では、まったく違ったものがイメージされていると思います。この手紙が書かれた時代において、人々がイメージする礼拝は、ユダヤ教の礼拝でした。
 出エジプト記29章38~42節を見ると、日ごとの献げものとして礼拝の基本的なスタイルが命じられています。そこには「祭壇にささげるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく一歳の雄羊二匹を、朝に一匹、夕暮れに他の一匹をささげる。そして、朝ささげる雄羊には四分の一ヒンのオリーブを砕いて取った油を混ぜた十分の一エファの小麦粉と、四分の一ヒンのぶどう酒の献げ物を加える。また、朝と同じく夕暮れにも、雄羊に穀物の献げ物とぶどう酒の献げ物を加え、燃やして主にささげる宥めの香りとする。これは代々にわたって、臨在の幕屋の入り口で主の御前にささぐべき日ごとの焼き尽くす献げ物である。わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。」と定められています。毎日、犠牲を献げ、そこで神に出会うという事が礼拝でした。
 パウロはユダヤの礼拝規定の中で育ってきたので、その根本には、このような礼拝のイメージがあったのだと思います。ただし、この時点では、実際のいけにえが献げられていたわけではなく、イメージとして語っていたと思います。
 そして、パウロの礼拝に対する思いは、ローマの信徒への手紙12章1節にあるように「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」という事なのです。
 私たち自身が神へのいけにえとして、献げられるという事なのですが、私たちは自分の体を献げることなどできません。それをイエスが十字架の上で担って下さったのです。
【殉教】
 続けて17節の後半でパウロは「わたしの血が注がれるとしても」と語ります。先ほど読んだ出エジプト記では、雄羊二匹が献げられ、それに加えて「オリーブ油を加えた小麦粉とぶどう酒」が献げられました。これは「注ぎのささげ物」と呼ばれました。
 パウロはその「注ぎのささげ物」として自分の血が注がれても、それを喜ぶのだと語ります。つまり、ここでパウロは自分が殺される、殉教するかもしれないと知っていたのです。
 殉教という言葉を聞く時、私たちは何か崇高なものをイメージしたり、美しさすらイメージしたりするのではないでしょうか。しかし、現実に自分が殉教するという事を考えるなら、そのようなイメージとは程遠いという事が理解できると思います。
 また、自分にとって愛する者、近しい者が殉教するという事を受け入れることが出来るでしょうか。もし、そのような状況になったとするなら「わたしを身代わりにしてくれ」と叫ぶかもしれません。しかし、それは殉教という事とは別の事柄、愛する者を奪われたくないという気持ちから出てくる行動なのではないでしょうか。
 いずれにしても、現代の日本で生きている限りにおいては、想像することさえ難しいことだと思います。ただ、世界に目を向けるなら、ミャンマーや北朝鮮のような国においては、今も命の危機にさらされながら信仰を守っている人が大勢いるという現実から目を背けることは出来ないと思います。
 これ以上、殉教について考えるなら、時間がいくらあっても足りなくなってしまいますから、結論は出しません。ここまでにとどめておきたいと思いますが、たまたま、今日の聖書教育はローマの信徒への手紙15章14~21節です。16節を見ると、パウロは異邦人の使徒としてフィリピ教会の人々が神に喜ばれる供え物となることを願っています。
 そのために自分は働いているというのです。そして、そのためならば自分の血が流されることも喜びなのだと語るのです。
【喜びなさい】
 パウロはここで「喜びなさい」と語りますが、誰かが死んでしまうことに対して喜べる人がいるでしょうか。もしかすると、憎くてたまらない人がいたとして、例えば自分の親や子どもが誰かに殺されたとして、その犯人が死刑になったなら、その人が死ぬことによって喜べるような気がするかもしれませんが、本当にそうなれるでしょうか。
 たぶん、そこには喜びなど有り得ないと思います。復讐の気持ちが無くなることもないでしょうし、ざまあみろとも思えないのではないでしょうか。
 パウロはここで「わたしの血が注がれたとしても喜ぶ」と語ります。それも「あなたがた一同と共に喜びます」と語っているのです。ここで「あなたがた」と呼ばれているフィリピ教会の人々にとっては、この言葉は迷惑な言葉でしかないのではないかと思うのです。
 パウロは死ぬことに対して「喜び」と語ります。百歩譲って、それを良しとしたとしても、「あなたも共に喜んでくれ」と言われたとするならば、「ハイ、そうですか」とは言えないと思うのです。親しい人が死んでしまったら、悲しいし、寂しさを感じるのが普通だと思うのです。
 しかし、それは初めに語ったように、感情という側面からの思いなのです。感情だけの喜びを前提に考えているから、喜べないと思うのです。
 パウロは1章21節で「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と語ります。つまり、ここで語られる「喜び」とは、キリストと共に生きることなのです。キリストと共に生きるということは、順風満帆、すべてが上手くいくことではありません。しかし、共にいる方を知っているという事は、大きな慰め、励ましになるのです。
 そして、死ぬことについても、その先に何も無い、虚無の世界ではないのです。それが利益だと宣言しているのです。なぜなら、死の先にあるものは虚無ではないからです。その先に何もないという事ではないのです。恐れることなく、その不安に打ち勝って生きる生き方が示されているのです。
 そのような生き方こそが、喜びの生き方なのだと語るのです。上辺だけの喜びではなく、すべての不安、恐れから解放された喜びがあるというのです。そして、それに気付いてほしいと願っているのです。

祈 り
讃 美   新生650 喜びて主に仕えよ
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏