前 奏
招 詞   箴言27章9節
讃 美   新生 14 心込めて 主をたたえ
開会の祈り
讃 美   新生344 聖なるみ霊よ
主の祈り
讃 美   新生426 語りませ主よ
聖 書   フィリピの信徒への手紙2章19~24節
                   (新共同訳聖書 新約P363)
宣 教   「使者テモテ」
【主イエスによって】
 前回、お読みした17~18節で、パウロは礼拝について、さらに、自分が殉教するような状況にあるけれど、それすら喜びに変えられるのだという、ある意味で差し迫った現実について語っていましたが、今回の19節からの箇所では、突然、個人的な事柄、それも、テモテとエパフロディトをフィリピ教会へと送り出したいという希望について語っています。
 なぜこのようなことを書いているのかについては、後回しにして、今回はテモテをフィリピ教会へと送り出したいという事を中心テーマにして読んでいきたいと思います。
 繰り返しになりますが、この時、パウロはローマで囚われの身だったと考えられています。知らない土地で囚われの身にあるという事は、非常に心細く、不安の中にいたと想像します。しかし、そのような状況の中ではありましたが、ずっと宣教活動を共にして、善き助け手として働いてくれたテモテがいたので、心強かったとも思います。
 そんなテモテをなぜフィリピ教会に送り出そうとしていたのでしょうか。いくつかの理由があると思いますが、今日、初めに見ていきたいと思うのは、19節に書かれているように「テモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています」という事なのです。
 この言葉を何気なく読んでしまいますが、ここには重要な言葉が使われています。それは「主イエスによって」という事なのです。この言葉はパウロがよく使う言い回しで、自分の思いではなく、主の計画の中に、そのことがあるという事を主張しているのです。
 私たちも、よく手紙の最後に「主に在って」とか「在主」という言葉を書いて手紙を締めくくります。教会関係の文書には必ずと言っていいほど、この言葉が書かれています。しかし、この言葉は慣用句的に使うべき言葉ではないと思うのです。
 前に「祈っています」という言葉を簡単に使い過ぎていないだろうかという問いかけをしました。また、祈りの最後に「アーメン」といいますが、これも祈りの締めくくりの言葉ではありません。「その通りです」同意しますという意味です。同じように「主に在って」という時、自分の思いや願いは後ろに下げて、主の計画を第一にしますという覚悟を持たなければならないのではないかと思うのです。何も考えずに使っていないか、問い直す必要があると思います。
【テモテについて】
 さて、本文に戻りたいと思いますが、ここに登場するテモテとはどういう人物だったのでしょうか。新約聖書の中には「テモテへの手紙」という文書が二つあり、どちらもパウロからテモテに宛てて書かれた手紙だと考えられています。これらに加えて「テトスへの手紙」という文書を含めた三つの手紙は「牧会書簡」と呼ばれ、教会の指導者に向けた手紙だと考えられています。
 そのような意味で「テモテ」という人は初期のキリスト教会の中では重要な指導者の一人だったと思います。そして、このテモテについて使徒言行録では16章に初めて名前が出てきます。
 パウロは第一回目の伝道旅行の後、エルサレムに戻り、そこで使徒会議と呼ばれる会議が開かれました。議題は異邦人がクリスチャンになるために、割礼や律法の厳守という事が必要かどうかという事でした。結論から言えば、偶像に献げられたもの、血と、絞殺した動物の肉、みだらな行いを避けるなら、他の重荷は負わせないという事でした。
 この決議によって、さらに大胆に宣教活動を続けられると考え、パウロはバルナバと共に二回目の伝道旅行に出かけようとするのですが、バルナバはマルコを連れていきたいと考えていました。しかし、パウロは以前の伝道旅行の途中で挫折したマルコを連れて行きたくなかったので、パウロとバルナバは決裂し、パウロはシラスを連れて伝道旅行に出かけるのです。
 そして、使徒言行録16章でテモテと出会い、その後の伝道旅行に助手として行動を共にするようになるのです。また、ローマで囚われの身となっていた時も、テモテが側にいたと記録されています。
 さらにパウロの手紙と考えられているテサロニケの信徒への手紙一、二、コリントの信徒への手紙二、コロサイの信徒への手紙、ピレモンへの手紙、そして、このフィリピの信徒への手紙の6つの手紙の冒頭に名前を連ねています。
 このようにパウロにとっては、とても頼りがいのある助手としてテモテの存在は大きなものだったと想像します。そして、共に働く中で、パウロとしては、自分の後継者として、異邦人教会の指導者としてテモテが歩んでくれることを望んでいたと思います。
【テモテの信仰】
 20節を読むと「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです」と語っています。パウロにとってテモテの信仰は「わたしと同じ思い」と表現するほどのもので、どこに出しても恥ずかしくないような立派な信仰だと証ししているのです。
 「わたしと同じ」と言ってしまうのがパウロらしくて、私たち日本人の謙虚さに照らすなら、少し傲慢な言い回しに感じるかもしれませんが、パウロは決して傲慢だから、自分の信仰は素晴らしいと語るのではありません。
 パウロの中にはキリストに出会う以前は、自分の努力、精進によって信仰を得ようとしていたけれど、そのような努力や精進によっては何も得ることが出来なかったという実体験があるのです。そして、キリストに出会うことによって、賜物として信仰が与えられたと証言しています。キリストを信じる信仰ではなく、キリストの信仰によって、自分は生かされていると語っているのです。
 ですから、傲慢な思いで、自分の信仰を誇るのではありません。賜物として与えられているからこそ、誇ることが出来るのだと確信しているのです。
 次の21節では「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」と語ります。つまり、テモテはいつも、キリストのことを追い求めているというのです。キリストのことを追い求めるとは、イエスの生き方を生きているという事なのです。
 それは神に対して従順な信仰の姿勢を表しているのです。イエスが十字架の死に至るまで従順であったように、テモテの信仰は神に対して、神の前で従順だと語るのです。
 さらに22節では、テモテが「確かな人物」であることは、あなたがたも知っているはずです。それを認めないわけにはいかないでしょうと念を押しています。その信仰姿勢は「息子が父に仕えるように」と表現されています。
 今読むと、息子が父に従うかな?と疑問が残るかも知れませんが、聖書の書かれた時代は、家父長制度が当たり前の時代であり、キリスト教会も父権制というピラミッド型の命令系統を良しとしていた時代でした。そういう意味で、言葉の善し悪しは別にして、パウロに対しても、キリストに対しても忠実に仕えた人物だと言い切っているのです。
【テモテを送りたい】
 このようにパウロにとって、信頼することのできるテモテだからこそ、フィリピ教会へと送り出したいと願っているのです。そして、フィリピ教会の様子を知ることによって、パウロ自身も「力づけられたい」と思っているのです。
 パウロの手紙を読んでいると、何となく上から目線とまではいかなくても、指導者として、何かを教えようとしているように感じることがあると思います。しかし、パウロという人は上から目線で、何かを指導しようとしているのではないと思います。
 今日の箇所にも書いてあるように、パウロ自身が「力づけられたい」のです。若いテモテを助手として迎え、伝道旅行に出かけた時も「共に福音に仕えた」と語っているように、自分が何かを教えてやろうとして同行させたのではなく、「共に」仕えようとしているのです。その姿勢こそが、「主イエスによって」という姿勢なのではないでしょうか。
 24節を見ると「わたし自身も間もなくそちらへ行けるものと、主によって確信しています」とあります。それは「主によって確信」しているのであって、主の計画ならば実現するという事なのです。
 私たちは「確信」という言葉に反応してしまい、パウロがフィリピに行くという事は、必ず主によって実現すると確信していると捉えてしまうのではないでしょうか。しかし、「主によって」という言葉を用いる時、パウロの中には主体はイエス・キリストであって、自分ではないという事がはっきりと理解できているのです。
 自分の思い、希望としてはフィリピ教会の人々の顔をもう一度見たいと思っているのです。けれども「主によって」と語る時、自分の思い、希望は後ろに下げて、前に出てくるのは主の計画なのです。ですから、主の計画の中にフィリピ教会を訪ねるという事がなければ、それは実現しないという事を理解した上で語っているのです。
 19節で「主イエスによって」テモテを送ることを希望し、24節で、自分も間もなくそちらに行けると「主によって」確信していますが、どちらもパウロの勝手な思いだとするなら実現はしないのです。ただ、主の計画だけが現実となり、キリストに従う者は、その現実を受け入れる用意をしておかなければならないのです。

祈 り
讃 美   新生388 主よ わが心に
主の晩餐  
献 金
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏