前 奏
招 詞   詩編113編4節
讃 美   新生 14 心込めて 主をたたえ
開会の祈り
讃 美   新生 73 善き力にわれ囲まれ
主の祈り
讃 美   新生506 主と主のことばに
聖 書   フィリピの信徒への手紙3章17~4章1節
                      (新共同訳聖書 新約P365)
宣 教   「しっかり立ちなさい」    宣教者:富田愛世牧師

【パウロに倣う者】
 今日は「しっかり立ちなさい」というタイトルを付けましたが、皆さんはしっかりと立っているでしょうか。私は今、こうして講壇の上にしっかりと立っていますが、質問の意味としてはそういうことではありません。4章1節の後半にあるように「主によってしっかりと立ちなさい」という事ですから、それぞれの人生において、生活において、躓いたりせずにしっかりと立っていますかという事です。
 ただ、それぞれの人生などと言うと、とても大きなものになってしまいますが、今日の聖書の中でパウロが語ろうとするのは、それぞれの信仰生活において、しっかりと立っているかという事だと思います。そして、しっかりと立つためには、どこに立つのか。さらに、どのように立つのかといったような「立ち位置」という事が重要になってくるわけです。
 もう一度17節から見ていきたいと思いますが、パウロは「兄弟たち」と親しみを込めて呼びかけ「皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と語ります。この言葉を聞いて皆さんはどのように感じるでしょうか。「わたしに倣う者となりなさい」などと自分から語りかけることのできる人はいるでしょうか。
 日本人が美徳として持っている「謙虚さ」という点から見るならば、パウロという人は謙虚さのかけらもない、高慢な人だと感じるかもしれません。しかし、誤解してはいけないのはパウロが自分を完成者として、模範にしなさいと語っているのではないという事です。
 3章12節を見ると「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」さらに14~15節にかけて「目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです」と書かれています。ここでは完全な者という表現がややこしくなっていますが、完成者ではなく、目標を目指して走る人を完全な者と表現し、自分は完全な者だと語っているのです。
 パウロ自身、信仰の完成者ではなく、キリストを目指している途上にあるのだから、一緒にキリストを目標として、共に目指していこうという勧めなのです。
【十字架の敵対者】
 パウロがこのように語って、フィリピ教会の人々を励ます背景には「十字架に敵対して歩んでいる者」の存在がありました。18節を見ると「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」と書かれています。
 「十字架の敵対者」と聞くとユダヤ教の祭司やファリサイ派の律法学者たちを思い浮かべるかもしれませんが、ここで語られるのは、そういう人たちだけではなく、キリストを信仰している人たちの中にも、十字架の敵対者がいたという事なのです。もちろん彼らは十字架の敵対者だと自覚しているのではなく、自分こそが正しいクリスチャンだと思っていたはずです。
 彼らはパウロと違って、自分たちは「すでに」信仰的なある地点に到達していると考えていたようです。それは現代的に言い換えるならば、成長神話だけに価値を置くようなクリスチャンを指しているようです。正しい信仰を持っていれば、必ず祝福を受け、教会は数的に大きくなるという考え方です。
 祝福を受けることも、教会が大きくなることも間違いではありません。しかし、福音とはそのような一面だけでなく、他にも様々な顔を持っているのです。ここでパウロが「十字架の敵対者」と語る背景には、十字架を正しく理解していなかったという事があるようです。
 十字架は今でこそキリスト教のシンボルとして、何となく素敵なアクセサリーにも用いられていますが、その本来の姿は恐ろしい死刑の道具でした。ギロチンや絞首刑の縄を身に着ける人はいないと思います。自分のオフィスに電気椅子のレプリカを置いて、そこで仕事をする人がいたら、相当な悪趣味だと思われるはずです。
 十字架に込められた意味は人間の弱さであり、愚かさなのです。そんな弱さや愚かさを引き受けて、死なれたのがイエスだったのではないでしょうか。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、息を引き取ったイエスは、いわゆる栄光の姿ではありませんでした。
 「弱さ、愚かさ」といった十字架の視点を無視して、栄光の姿だけを追い求めるような人たちに対して、19節で「彼らの行き着くところは滅び」なのだとパウロは語るのです。
【天】
 続けて読むと「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」と書かれています。腹を神とするという事は、食欲に代表されるような、自分の欲求を第一としているという事で、自己満足ために神を利用するような信仰姿勢を指しているのです。
 恥ずべきものを誇りとするとは、当時の状況から考えると割礼という事になります。割礼を受けているか、受けていないかが基準になってしまうのです。もちろん宗教上必要なことかもしれませんが、救いという神の愛の業の前には、何の意味もない、体の傷でしかありません。現代においてバプテスマや洗礼が、割礼のようになっていないか、もう一度、見直す必要があるかもしれません。
 そして「この世のことしか考えていません」と言いきっているのです。つまり、彼らは「この世」の価値観に立って信仰を理解していたのです。しかし、そんなことが可能なのでしょうか。基本的には、それは不可能だと思います。イエスが語り、生きた福音とは、ある意味でこの世の価値観を根本から変えてしまうものです。貧しい者が幸いで、右の頬を打たれたら左の頬を出すのです。もしかするとバカを見るだけで終わってしまうかもしれません。しかし、イエスはこの世に生きていたのです。
 ただし、イエスが共に食事をし、交わっていたのは、この世の価値観に照らし合わせた時に価値があると認められるような人たちではありませんでした。反対に小さくされ、忘れられた、名もなき人々でした。そんな人たちと付き合うと損をすると言われる人たちでした。実際イエスは損をして殺されたのです。
 しかし、パウロは「天」の価値観に立つことが最高の道であると語るのです。「わたしたちの本国は天にあります」と語ります。天というのは、空の上の方にあるどこか、ではありません。神の領域を表しています。天が本国だという事は、神が共にいてくださる、神が味方してくださるという事です。
 その事実の元に、私たちの歩みは確かなものとなるのです。私たちの歩みとは、キリストを目指す歩みであり、その歩みに対して神からの保証が与えられるのです。
【愛する人たち】
 そして、最後に締めくくりとして「愛する人たち」と声をかけ、もう一度励ましています。パウロにとって愛すべき人とは、不完全であっても、未熟でも、中途半端でもいいのです。共にキリストを目指して歩む人たちであり、彼らこそが、パウロにとっては「喜びであり、冠」なのです。
 パウロという人のイメージには、一匹狼的なイメージを持つ人がいますが、決して一人ではありませんでした。私たちの信仰も、個人の信仰という事が大切にされますが、それだけでは成長できません。一人で聖書を読み、祈ることも大切ですが、それだけで「キリストを目指す」ことはできません。
 パウロは共に励まし合う「仲間」を必要としました。それは自分の弱さを知っているからです。弱いという事は否定的にとられるかもしれませんが、本当にそうなのでしょうか。もちろん、開き直って「私は弱いから」と言って何もしないという事を勧めているわけではありません。また、何もしないという事に対して正当な理由付けをしようとしているのでもありません。
 ここで語られる「弱さ」とは、他者の助けを必要とすることであり、同時に他者の助けにもなろうとするという事なのです。
 自分の弱さに気付かないことほど愚かな事はありません。反対に自分の弱さを知るという事は、本当の強さにつながるのです。
 自分の弱さを認め、しかし、そのことに甘えるのではなく、受け止めたうえで仲間と一緒に高みを目指すという事が大切なのです。そのような謙虚な立ち位置に、しっかりと立つという事が、キリストに至る道なのです。

祈 り
讃 美   新生563 すべての恵みの
献 金
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏