前 奏
招 詞   創世記12章1節
讃 美   新生 14 心込めて 主をたたえ
開会の祈り
讃 美   新生464 主が来られて 呼んでおられる
主の祈り
讃 美   新生445 心静め語れ主と
聖 書   フィリピの信徒への手紙3章12~16節
                       (新共同訳聖書 新約P365)
宣 教   「前に向かって」    宣教者:富田愛世牧師

【発展途上】
 今日は3章12節から読んでいただきましたが、新共同訳聖書の小見出しを見ると「目標をめざして」となっています。前回のところは「キリストを信じるとは」となっていました。つまり、キリストを信じるという事は、目標を目指し前に進み続けるという事ではないかと思うのです。
 もう一度、12節を読んでみたいと思います。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。」とあります。
 ここでパウロが語ろうとしているのは、自分の信仰、そして、フィリピ教会の信仰、さらに現代に生きる私たちの信仰について語ろうとしているのです。そして、それらは未だ途上にあるのだから、歩み続けなさいという事なのです。
 途上という言葉は、何となく未熟な感じで受け止められるかもしれません。一般的によく耳にする言葉として、発展途上国とか開発途上国という言い方がありますが、それらの国は未熟なのでしょうか。そんなことはないと思います。ただ、先進国と呼ばれる国の経済力に比べるなら、低い水準だというだけです。
 そして、それらの国がみんな先進国のようになろうとしているわけではありません。そういう意味で途上というのは未熟なことを意味するわけではないのです。さらに、途上の先に完成という概念があるとするなら、完成してしまえば、その先はありません。そこで、終わりなのです。
 信仰に終わりがあるとしたなら、それはどのような状態の事なのでしょうか。それは神になるという事と同じことになってしまい、人間の犯す一番大きな罪となってしまいます。だからこそ、私たちはいつも途上にいることを、喜びを持って受け取る必要があるのです。
【キリストに捕らえられ】
 続けて、12節の後半には「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」と語っています。自分の信仰が途上にあるのは、キリストに捕らえられているからだと言うのです。現実を見るならば、ローマ帝国に捕らえられ、囚われの身となっていますが、それは肉体的な事柄でしかありません。
 肉体的にはローマに捕らえられているかもしれませんが、その心は、精神は、そして、魂はローマに捕らえられているわけではなく、キリスト・イエスに捕らえられていると語るのです。
 それでは、キリストに捕らえられているとは、どういうことなのでしょうか。ローマの信徒への手紙を見るならば、信仰義認という事が語られています。私たちは律法の行いによって神に義と認められるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められるという事です。
 さらに、イエス・キリストを信じる信仰がどこから来るのかと言えば、それは私たちの中から出てくるのではなく、イエス・キリスト御自身によって、私たちに信仰が与えられているという事なのです。
 ここでは、それを「キリスト・イエスに捕らえられているからです」と表現しています。キリストに捕らえられることによって、私たちに信仰が与えられる、キリストに捕らえられなければ、信仰を得ることが出来ないのです。
 13節からは競技場での競技者に自分をなぞらえて語ろうとしています。そこで最初にくぎを刺しているのは「わたし自身はすでに捕らえたとは思っていません」という事なのです。
 それは当然の事でしょう。12節で「捕らえられているからです」と受け身の形で語っているのですから、能動的に「捕らえたとは思っていません」というのは当然の事です。ただ、競技者になぞらえて語る時には、自分の行動も必要だという事を語らなければならないので、最初にくぎを刺しているのです。
 捕らえたのではなく、捕らえられたから信仰が与えられているのです。しかし、それは完成して終わってしまったのではなく、未だ途上にある。だからこそ、そこに喜びがあるというのです。そのためには「後ろのものを忘れ」なければならないのです。
【神からの賞】
 後ろのものを忘れると言うと、振り返って、今までの経験、実績などといったものを思い起こし、それらを自分の決断によって忘れようとすることをイメージすると思います。パウロにとっては、ユダヤ教の割礼や律法主義という事をイメージして、それらを忘れようとしたのでしょうか。
 同じように、私たちにとっての「後ろのもの」とは何でしょうか。それぞれが「後ろのもの」を思い浮かべることが出来ると思います。まだ、罪の中にいた時の、私たちの価値観を「後ろのもの」としてあげることが出来ると思うのです。
 キリストの信仰によって救われた今は、昔の価値観ではなく、新しい価値観の下に生活することが出来るようになりました。しかし、それらは、今でも時々顔を出してきて、私たちを悩ませているのです。なかなか自分の力によって忘れることは難しいのです。
 そのような私たちに対して、パウロは続けて「前のものに全身を向けつつ」と語るように、振り返るのではなく、先を見ていくことを指しているのです。今がどうでもいいとか、過去はどうでもいいということではなく、過去を真剣に生き、今も真剣に生きていくならば、振り返って後悔するのではなく、それらを用いて前に進むことが出来るのです。
 そして、前に向かって進む時、神は一つの賞を用意してくださるのです。人間社会において賞を得るという時、そこには競争のようなものや他との比較という基準があります。競争に勝ったり、他より優れていることによって賞を得ます。しかし、神が与えてくださる賞は競争や比較ではありません。

祈 り
讃 美   新生485 主よ われをばとらえたまえ
献 金
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏














【到達したところ】
神が与えてくださる賞について、パウロは二つの側面から語ります。一つは価なしに与えられる恵み。そして、もう一つは最大限に自分の力を注ぎだすと事なのです。

与えられる恵みとしての賞という事については、パウロの信仰を見ていく時、すぐに理解できることではないかと思います。神からの賞は、純粋な賜物として、与えられるのです。

人間の力によって、作りだすことなどの出来ないものであり、ただ、上から与えられるという事なのです。しかし、このことだけを語ると、どうしても「それなら、何もしなくていいのだ」と誤解してしまう人が現れてしまうのです。

ですから、もう一つの側面として、最大限に自分の力を注ぎだすことも必要となってくるのです。パウロはこの手紙の中で競技場での競技者に例えて、そのことを語ろうとしています。「目標をめざしてひたすら走る」ことも大切なことなのです。

ただ、目標をめざしてと語られる時、私たちは、私たちの社会の中での常識に照らして考えてしまいます。そうすると、みんなが同じ目標に向けて競争する姿を思い浮かべてしまうのです。

ここまで、走ってきなさい。上ってきなさい。というように想像してしまいます。しかし、16節を見ると「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」と書かれているように、それぞれの到達点は違っていても構わないのではないでしょうか。

それぞれの到達点、ゴールを目指して、前に向かって、ひたすら走れば良いのではないでしょうか。ただし、この到達点、ゴールは、たどり着いたらそれで終わりという事ではないのです。この世に生かされているという事は、歩み続けることが出来るという事なのです。「そんなに歩き続けるなら、疲れ果ててしまう」と思う方がいるかもしれません。

安心してください。足跡という詩、ポエムをご存じでしょうか。私たちが疲れ果ててしまった時、私たちをおぶって、歩き続けてくださる方がおられるのです。