前 奏
招 詞   フィリピの信徒への手紙4章10~14節
讃 美   新生120 主をたたえよ 力みつる主を
開会の祈り
讃 美   新生 93 たそがれの空よりも
主の祈り
讃 美   新生131 イエスのみことばは
聖 書   創世記16章1~5節、15節
                  (新共同訳聖書 旧約P20)
宣 教   「弱者を見守る神」    宣教者:富田愛世牧師

【人の浅知恵】
 アブラハムという人はユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教が共通して尊敬している信仰の父です。そして、この3つの唯一神教と呼ばれる宗教はヘブライ語聖書を聖典の一つとして用いている事でも共通しています。
 少し脱線しますが、キリスト教では新約聖書と旧約聖書があるので、旧約聖書と呼びますが、ユダヤ教はヘブライ語聖書だけを聖典としていますから、旧約ではありません。ですからユダヤ教への敬意をこめて旧約ではなく、ヘブライ語聖書と呼びたいと思います。また、イスラム教はクルアーンが最高の経典ですが、モーセ五書や詩編、そして、イエスの福音書も聖典として認めているのです。
 そのように考えると、このヘブライ語聖書を読んだり、ここから影響を受けたりしている人は、世界人口の3分の2近くになるのではないかと思います。それくらい貴重で重要な書物なのですが、私はそれにもまして、ヘブライ語聖書のすばらしい点は、この信仰の父と呼ばれる人が、神の約束を信じないで、人の浅知恵によって失敗を犯してしまった事実を記している点にもあると思うのです。
 アブラハムの妻サラは、神の約束をアブラハムから聞いていましたが、それが自分の身に起こる事だと信じられずにいたようなのです。神の約束の実現を見るためには、多くの場合、忍耐が必要になってきます。もちろんすぐに約束が実現する事もありますが、聖書に書かれている様々な出来事を見ていく時、忍耐によって、その人が成長させられ、成長した時に約束の実現を見るというパターンが多いように思うのです。
 この場合もある程度の忍耐が必要だったのだと思います。しかし、サラは忍耐せず、すぐに子どもが与えられると思ったのでしょう、自分はもう生むことのできない体だからという事で、女奴隷のハガルを連れて来て夫アブラハムの側女にしたのです。このサラの行動について、現代に生きる私たちは非難したくなりますが、当時の道徳的な常識に照らし合わせるならば、何も不思議なことではなかったようです。
 とにかくサラは自分ではなく、側女によって子どもを得ようとするのです。いかにも人間的な浅知恵だと思いますが、このサラの考えを責めることのできる人がどれほどいるでしょうか。聖書を概念として読み、受け止めているクリスチャンが多いのが現実です。「聖書はこのように語っている。でも現実は・・・」と言って、その御言葉が自分に向けて書かれていると受け止めず、概念として受け止めてしまうクリスチャンが多いのです。
【嫉妬】
 ここでサラのとった行動というのは、一目瞭然、誰にでも分かるような浅知恵からのものでした。そして、そのような浅知恵の結果はたいてい不完全なもので、混乱を引き起こしてしまいます。
 子どもを身ごもるという事を、私は経験した事がありませんから、どんな気持ちになるのかは分かりませんが、とても嬉しい事だと思います。そして、神からの祝福の一つだという事も事実です。しかし、身ごもるか身ごもらないかという事には、何の因果関係もありません。日本では「天からの授かりもの」という言い方がありますが、まさしくその通りだと思うのです。
 サラがアブラハムに与えた女奴隷ハガルは、その辺を少し勘違いしてしまったようです。身ごもると主人であるサラを見下すようになりました。サラにとっては自業自得のような出来事ですが、自分には子どもができないという劣等感と自分の計画が裏目に出たということで二重の悔しさがサラの心を占めていたのではないかと思います。
 この悔しさはただの悔しさではなく、嫉妬という感情に変化し、その思いをアブラハムに訴えるのですが、アブラハムは真剣にその思いを受け止めようとはしませんでした。私は男ですから、何となくこのアブラハムの気持ちが理解できてしまうのです。自分にもその責任の一端があるにもかかわらず、現実や責任から逃げようとする男の弱さやずるさというものが、とてもよく表される答えだと思います。
 嫉妬という感情は、すべてを否定的に変えてしまいます。悪い方へ悪い方へと考えさせ、人を正常な判断ができないように変えてしまうのです。その結果としてハガルを荒野へと追いやってしまいました。
【弱者】
 しかし、そこに神が介入されるのです。ヘブライ語聖書を読むならば、いつでも弱者と呼ばれる人々に神の目は注がれています。律法の中にはヨベルの年の規定があり、その年にはすべての負債が免除されると規定されているのです。新約聖書においても神の目は虐げられる人たちに向けられています。神の立場は一貫して弱者の側に立ちます。
 ここでも、アブラハムの使命を尊重しながら、ハガルに手を差し伸べるのです。ハガルの存在と、これから生まれてくるイシュマエルによって関係がこじれたり、複雑になったりするのですが、それを知った上で、神はハガルに救いの手を差し伸べ、ハガルに対しても祝福の約束をされるのです。
 以前、「弱者とは誰か」という本が出版され話題になりました。一般社会では立場が変ると弱者と強者が入れ替わることもありますが、聖書の語る弱者は普遍的な弱者です。やもめや孤児、寄留者を神は弱者としています。その他にも障碍のある人や病人を弱者と位置づけています。これらの人は神の目から見ると弱いのでしょうか。そういう事ではないと思います。弱いとか強いという表現は、絶対的なものではなく、相対的なものです。
 聖書が位置づける弱者とは、構造的に作られた弱者なのです。やもめや孤児が弱者にされるのは、家父長制度を前提にしているから、その制度の中で弱者にされてしまうのです。寄留者というのもクニという人間が勝手に作り出した制度に当てはまらない存在だから弱者とされてしまうのです。ちなみにヘブライ人という名前が聖書に出てきますが、元々の意味は、カナンの地に飢饉が襲った時、エジプトに逃げ、寄留者となった人々に対する呼称で、現代的に訳すと難民という意味だったそうです。
 障碍のある人や病人が弱者とされるのも、いわゆる健康な人を中心にした社会構造があり、それに当てはまらない生活形態をとらなければならない人を排除してしまうから弱者になってしまうのです。もちろん、多くの人は排除している意識はありません。しかし、障碍や病気でない状態を「幸い」としてしまう鈍感さによって差別が生まれてしまう現実から目をそらしてはいけないのです。
【神の憐れみ】
 神が弱者に目を注ぐのは、神が「あわれみの神」だからです。あわれみという日本語は、あまり積極的なイメージを持っていないかも知れません。人間同士の関係で「あわれみ」という言葉が使われる場合には、あわれむ側とあわれまれる側というように、一方に優越性が現われる事が多いと思います。いわゆる「上から目線」と言われるものによって差別的な関係ができやすいので、注意しなければなりません。
 しかし、神にとって被造物である人間に優劣はなく、みな平等なのです。そして、神だけが優った存在なのです。言葉は悪いかもしれませんが、神にだけ「上から目線」は許されるのです。
 さらに神は、上下関係であるにもかかわらず、そのあわれみのゆえにこの世に下ってきてくださいました。それがイエスであり、そこに救いがあるのです。ハガルに目を注ぎ、ハガルを祝福する神の姿は、そのまま新約のイエスの姿とかぶっているのです。
 イスラエルの歴史という本筋からいくなら、アブラハムへの祝福だけで良かったのかもしれません。しかし、私たちの現実の世界は、そのような本筋だけではなく、横道だらけなのです。
 その横道にそれたハガルに目を向けられる神が、御子イエスという姿をとって、この世に来てくださったことを忘れてはいけないのです。そして、そんな横道で悩み、苦しんでいる私たちだからこそ、イエスの御名を呼び求める事が許されるのです。

祈 り
讃 美   新生554 イエスに導かれ
主の晩餐  
献 金
頌 栄   新生672 ものみなたたえよ(B)
祝 祷  
後 奏