前 奏
招 詞   ローマの信徒への手紙4章1~3節
讃 美   新生  2 来れ全能の主
開会の祈り
讃 美   新生 27 たたえよあがないぬしイエス
主の祈り
讃 美   新生319 豊かなる恵みを
聖 書   創世記15章1~6節
                   (新共同訳聖書 旧約P19)
宣 教   「神に賭ける」    宣教者:富田愛世牧師

【これらのことの後】
 先週から族長物語という事で、アブラハムの物語を読み始めましたが、今日は15章1節から6節までを読んでいただきました。
 1節を見ると「これらのことの後で」という出だしで始まっています。これらの事とは、どういうことかと言うとアブラハムがハランを旅立ってからの事をさしています。アブラハムがハランを旅立ったのは12章4節によると75歳の時だったことが分かります。
 そして、カナン地方に住み着くようになるわけですが、16章3節を見ると「アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった」と書かれているので、それくらいの時期だったわけです。
 この10年間、様々な出来事があったと思います。12章でカナンの地に住み始めた途端、飢饉に見舞われてしまいます。12章10節を見ると「その地方に飢饉があった」と記録され、アブラハムたちは飢饉を避けるためエジプトに下っているのです。
 そして、13章ではエジプトを出て、カナン地方のベテルに移っていくのですが、そこでハランから共に旅してきた、甥のロトと別れるのです。その理由はアブラハムのもとで家畜を飼う者とロトのもとで家畜を飼う者との間に争いがあったからだというのです。この時点でアブラハムとロトは共に多くの財産を手に入れていたという事が分かります。
 その後、14章を見ると、その地方に住む王たちの争いに巻き込まれているのです。厄介なことに巻き込まれて、さぞ迷惑だっただろうと思いますが、この戦いによってアブラハムは、その地に住む王たちから信頼を得ることができ、さらにサレムの王、メルキゼデクから祝福を受けるのです。
 このような出来事を通して、寄留者であり、よそ者だったアブラハムはこの地域の一員として認められたのだと思います。おそよ10年かかって、やっと一人前の族長として、その地域に受け入れられたのです。そういう意味で、何不自由なく暮らしていけるようになったと表面的には見えたのですが、神の見方は、そうではなかったようです。
【恐れるな】
 何故なら、神からの語りかけは「恐れるな、アブラムよ。」という語りかけで始まっているからです。「恐れるな」という言葉を読むと、私はクリスマスの場面を思い出します。
 最初に思い出すのは、野原で羊の番をしていた羊飼いたちのところに天使が現れた場面です。真っ暗な夜空に突然光が現れ、天の軍勢が現れて、羊飼いに向かって「恐れるな」と言ってから「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」というのです。
 次に思い浮かべるのが、マリアに対する天使ガブリエルの言葉です。この場面では最初に「おめでとう、恵まれた方」という呼びかけで始まり、次に「マリア、恐れることはない」となっています。さらにヨセフについては、マリアが身ごもったことを知り、ひそかに縁を切ろうとした時、天使が現れ「恐れずマリアを迎え入れなさい」と告げているのです。
 それぞれ、何を恐れていたかという対象は違うと思うのです。羊飼いは、突然の光と天使の存在を恐れたと思います。マリアは、自分の身に起こった不思議な出来事に対する戸惑いではないかと思います。そして、ヨセフについては世間体のようなものに対する恐れではないかと思うのです。
 それでは、今日の箇所でアブラハムが恐れていたものとは何なのでしょうか。神からの語りかけを聞く時の「恐れ」と捉えることもできますが、アブラハムの内面にある不安を神が理解していたと解釈することもできると思うのです。
 それは続く言葉として「わたしはあなたの盾である」という言葉にあるように、守りを必要としていたアブラハムに向かって語られているのです。アブラハムの抱えていた不安とは、子がいないということでした。
 当時の常識的な考え方の中には、神からの祝福は子孫の繁栄によって実現するというものがあり、それが支配的だったようです。さらに、人間というのは昔から自分の生きてきた証を残したいという願望を持っていました。今でも多くの人は、そのような証を求めます。その事自体は決して悪い事でも何でもありませんが、その価値観が絶対化してしまう時、それが一人歩きして、その価値観に合わないものを排除するようになるので、注意しなければなりません。
 そういった思いから、子どもがいないという事がアブラハムにとっての大きな悩みであり、不安の源だったようです。そして、アブラハム自身は、信頼するしもべを跡取りにしようと決めていたようです。
【子孫を与える】
 しかし、そんなアブラハムに対して、神の計画は思いもよらないものだったのです。それは「あなたに子孫を与える」というものでした。それもただ与えるのではなく、その数は空の星のように多くなるという、常識的には信じられるはずのない約束だったのです。
 現実に目を向けた時、アブラハムはすでに年老いていて、子どもが与えられるなどという事は考えられないことでした。ハランを出た時75歳でした。それから約10年経っているわけですから85歳です。妻のサラも74歳になっていました。ですから、あり得ないことだったのです。
 そんなアブラハムに対する神の言葉は、4節にあるように「あなたから生まれる者が後を継ぐ」という事だったのです。そして、アブラハムを天幕の外に連れ出し、夜空を見上げさせ「天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」というものでした。
 ローマの信徒への手紙4章には「アブラハムの模範」という小見出しが付いていて、アブラハムの信仰について書かれています。18節には「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」と書かれています。
 カール・バルトという神学者は、この箇所について「彼は、どんな目も見なかったものを見、どんな耳も聞かなかったものを聞いた。彼は、何も望みえないときに望んだ」と表現し、これが信仰であると語っているのです。信仰という事柄は、信じるという事ですが、そこには想像力というものがなければならないと思います。(バルトの説教選集6)
 見えないものを、見ていく想像力、聞こえないものを、聞いていく想像力、望み得ないものを、望む想像力、これらは信仰のない者にとっては妄想と思われるかもしれません。また、信仰があったとしても、いつでも確信に満ちたものとは限りません。言葉は悪いですが、賭けのようなものなのかも知れません。
【神に賭ける】
 しかし、そこには土台の違いというか、根本的な違いがあります。発音としての想像力という言葉には2つの漢字が当てはめられます。
 一つは英語にするとイマジネーションと訳される方の想像力です。これは目には見えないものを思い浮かべる能力と説明されています。人を見て、その人がどんな人生を送ってきたかを想像する。人の営みの延長線上に平和な世界を想像する。そういった無から有ではなく、有るものや事柄をアレンジしたりコーディネイトしたりする力であり、空想や妄想にもなる可能性があります。
 それに対して、もう一つの創造力とは、英語に訳すとクリエーションと訳されるものです。そして、これは神の創造力なのです。最近はどうか分かりませんが、20年位前の若者に人気のあった職業は「クリエイティブ系」と呼ばれるものでした。「創作的」な仕事や「独創的」な発想を大切にする仕事だと考えられていますが、本当の意味での創造、クリエイトではなく、既にある素材をアレンジするようなことでしかありません。
 神の創造力とは、光あれ、と言うと暗闇の中に光が生み出され、地に青草が生えよ、と言うと何もなかった地面に青草が生え出てくるような創造力なのです。
 この創造力に賭けていく時に、見えないものを見ていくという事は、無から有が生まれるという事になり、そこに見えるものが何であっても不思議な事ではなくなるのです。私たちは勝手に神の力を見くびり、小さなものにしてしまうので、自分の常識の範囲内の事しか期待できなくなってしまうのです。
 今、あなたが無理だと思っていることを、神の前に期待して祈ってみてください。そうすれば、必ず神は答えをくださいます。ただし、自分の価値観、常識に当てはめた答えを期待するならば、多くの場合、期待はずれになります。神に賭けるというのは、神が与えてくださる答えを受け入れるという事であり、それを感謝するところに、信仰による祝福が与えられるのです。

祈 り
讃 美   新生104 雨を降り注ぎ
献 金
頌 栄   新生672 ものみなたたえよ(B)
祝 祷  
後 奏