前 奏
招 詞   使徒言行録3章25節
讃 美   新生  2 来れ全能の主
開会の祈り
讃 美   新生557 幻をわれに
主の祈り
讃 美   新生137 うみべの野で
聖 書   創世記12章1~7節
                  (新共同訳聖書 旧約P15)
宣 教   「初めの一歩」     宣教者:富田愛世牧師
【族長物語】
 先週でフィリピの信徒への手紙が終わりましたので、次はどこを読んでいこうかと考えていました。いろいろと考える中で、教会学校の学びが創世記1章から11章までになっていて、それが9月で終わりになります。だったら、その続きを読んでいこうかなと思いました。
 そういうことで、今日からアブラハム、イサク、ヤコブと続く族長物語をご一緒に読んでいこうと思っています。ただ、族長物語の背景には、とても残念な出来事が記録されています。そして、そのような背景があったという事を土台として読んでいかなければ、この物語の本質を見失うことになってしまうのです。その背景とは11章に書かれている出来事です。
 神はその創造の業の中で愛する対象として、また、祝福すべき相手として人間を創造されました。しかし、人間はその罪の性質のゆえに神に逆らうようになっていくのです。11章に書かれているバベルの塔の出来事はその結果でした。人間は一致団結し、一つになることによって高慢になり、神になれると思い違いをしてしまったのです。
 ここで注意すべき点が一つあります。それは一致という概念の捉え方です。聖書の語る一致という概念は、とても広い意味を持っているのですが、一般的に用いられる一致という概念は、とても狭い範囲の意味しか持っていません。百人いれば、百人が同じ思いを持ち、同じ方向を見て、同じ行動をとることが一致であると理解されることが多いと思います。しかし、それは全体主義であって、聖書はそのようには受け止めていません。百通りの思いがあり、百通りの方向性を持ち、百通りの行動があるという考え方をするのです。
 つまり、聖書が一致を大切にするのは、一人ひとりを大切にするからなのです。全体主義にとって、一人の人は歯車の一つにしか過ぎず、人を大切にするよりも、組織を大切にしているわけです。そして、全体主義に陥ると、人は神に反逆するようになるのです。
 個を大切にして一致するより、全体主義の方が手っ取り早いし、簡単な方法です。なので、すぐにそちらに流れやすいので、注意しなければなりません。バベルの塔の事件は、そのような神に反逆する全体主義に対する神の裁きの出来事だったのです。そして、神が人を全地に散らされたということは、裁きの結果であると同時に、神の計画の一つであったということを覚えておかなければならないのです。
【祝福される】
 このような背景を前提として、12章から始まるアブラハムの物語を読んでいきたいと思いますが、聖書を見るとアブラムと書いてあるのに、なぜ牧師はアブラハムと言うのか疑問をお持ちの方もいると思います。
 アブラムとアブラハムどちらが正しいのかではなく、この後に出てくる17章で神との契約を結ぶまではアブラムという名前だったのですが、その後はアブラハムと名前が変わっているのです。これはどちらも「父、すなわち神は高められる」という意味の言葉で、同じ名前の長い形と短い形というだけのことです。なので言いやすいアブラハムという名前を用いたいと思いますので、ご理解ください。
 さて、12章1節に書かれている神の命令、そして、それに続くアブラハムの行動というものは、まさしく全体主義的な一致とは正反対の行動なのです。「父の家を離れて」などという言葉は当時の感覚からすれば、あまり好ましい言葉ではないと思うのです。もちろん、一人の人間は、いつかは独立していく事がふさわしいのですが、それは現代社会における常識であって、聖書の書かれた当時の状況とは違うものなのです。
 今でも、その名残が見られますが、当時の中近東は部族社会と呼ばれる社会構造を持っていて、族長の率いる集団が一つの国のような存在でした。アブラハムの父であるテラは族長としてカルデアのウルから一族を率いてハランに向かいました。そこで、定住したようなのですが、アブラハムはさらに神の命令に従ってカナンの地を目指すわけです。
 しかし、神は無責任にそのような命令をされたのではありません。そこには神の祝福が約束されていたのです。2、3節を読むと「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」と書かれています。
 神はどのような人でも愛しておられます。しかし、祝福を受けるためには決断が必要なのです。その決断には、時として大きな危険が伴うこともあるのです。
【一族の状況】
 それではアブラハムにとっての危険とはどのようなものだったのでしょうか。それは一族の生活全般、その置かれた状況について見ていくなら、ある程度想像できると思うのです。このままハランに留まって、父テラが築いた多くの財産を守りながら生活する事と、見たこともない未知の地であるカナンへの流浪の生活とを比較してみたいと思います。
 まず、アブラハムが率いる一族とは、どのくらいの規模だったのでしょうか。ハッキリと書かれていませんが、蓄えた財産やハランで加わった人々と書かれているように、かなり大勢の人数だったと思われます。また、14章ではその土地の王たちの戦に巻き込まれ、捕虜にされたロトを助けるため318人の訓練された兵士がいたようなので、少なくても千人近い規模の集団だったと想像できます。
 このような部族集団が、そのままハランに留まるという事は、ある意味で都市生活を続けていくという事です。そこでの生活は安定し、ある程度の安心を得る事ができるのです。それに対して、旅に出るということは流浪の生活を送ることになります。そこにあるのは不安と不安定な生活です。
 しかし、一つだけ都市生活にはないものがありました。それは自由ということなのです。ただし、一般的な自由ではなく、神に賭けていくという自由です。
 このときすでにアブラハムも妻のサラも年老いていました。子どもが出来る可能性は限りなくゼロに近い状況でした。そんな一族に将来を望むことは無理だったと思います。しかし、彼らは神からの呼びかけに自由に答えたのです。常識に捉われることなく、自由に神に従ったのです。
 将来について考えるなら、定住していれば、ある程度の安心感を持つことが出来るでしょう。しかし、それは目先の安心感でしかないのです。その安心はいつまでも続くものではありません。かえって定住を選ばなかったアブラハムだからこそ、目先の安心や安定にしがみつくという気持ちが起こらなかったのではないでしょうか。
 このように見ていくならば、先に言った「危険」という概念が、本当は危険ではなく、それこそが祝福だということに気付くのではないでしょうか。
【神の約束】
 神は7節において「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束してくださいました。先ほど言ったように、この時アブラハムは75歳、妻のサラは10歳若いけれど、すでに65歳でした。そして、二人の間には子どもがいませんでした。この老夫婦に対して「あなたの子孫に」という約束はあまりにも現実味のないものだったと思います。
 しかし、この約束に対してアブラハムは祭壇を築きました。祭壇を築くというのは礼拝したということです。神の言葉を受け入れ、それを信じたから礼拝したのです。疑いがあったとするならば、礼拝することは出来ないと思います。礼拝するという行為が、ここにおいてはアブラハムの信仰の告白だったのです。
 私たちは神の約束とか信仰という事柄をあまりにも美化しすぎる事があります。しかし、ここに書かれているように、神の約束というのは信じられないような事であり、自分にとって都合の良いことばかりではありません。神を信じれば、何でもうまくいく、自分の思った通りになる、そのように思いがちです。もちろん、そういうこともあります。しかし、現実はそうならないことの方が多いような気がします。
 そして、そんな時に試されているのかもしれません。アブラハムは神の約束だけを頼りにして、危険をおかして旅に出る決断をしました。しかし、結果としてその危険は危険ではなく祝福でした。自分勝手に、わがままに過ごせる事が自由のように思えますが、アブラハムが手にした自由は、世の常識にとらわれずに神に従う自由だったのです。
 自分の理性では納得できないかもしれません。どう考えても合点の合わない事ばかりかも知れません。しかし、理性で納得できない部分をあえて信じていく時、新しい視野が開けるのです。今、私たちに求められているのは、そのような祝福と自由を手に入れるため、一歩踏み出していく勇気なのです。

祈 り
讃 美   新生639 主の恵みに生きる
献 金
頌 栄   新生672 ものみなたたえよ(B)
祝 祷  
後 奏