前 奏
招 詞   ヨハネによる福音書3章16節
讃 美   新生120 主をたたえよ 力みつる主を
開会の祈り
讃 美   新生300 罪ゆるされしこの身をば
主の祈り
讃 美   新生384 語り伝えよ 神のみ言葉
聖 書   創世記22章1~14節
                   (新共同訳聖書 旧約P31)
宣 教   「準備されている」    宣教者:富田愛世牧師
【神の試み】
 以前お話したように、ここに登場するアブラハムという人物は、ユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教において、信仰の父としてたいへん尊敬されている人物です。この3つの宗教は、同じヘブライ語聖書を聖典の一つとして用いていますので、このアブラハムがイサクを捧げようとした物語は世界的にも有名な物語となっているようです。そして、この箇所がアブラハムを信仰の父と呼ぶ理由となった一つの箇所なのです。
 信仰というものは、目に見えるものではありませんから、それが確かなものなのかどうかという、判断基準がとても難しくなってきます。もちろん、そんな判断をする必要はないのかもしれませんが、信仰を持つ者にとっては、日々成長する事ができればという願いがあるのも事実だと思います。信仰が確かなものとされるためには順風満帆、すべてが上手く運ぶだけではなく、節目の時には大きな試みがあるという事実をこの物語は語っています。
 アブラハムには長い間、子どもが与えられませんでした。しかし、神によって与えられた約束は子孫が増え、族長として多くの財を持った、偉大なリーダーになるというものだったのです。しかし、この約束は、約束が与えられた時のアブラハムの75歳という年齢からすると、常識的には信じられないものでした。
 しかし、それを信じる事によってアブラハムは義と認められたのです。そして、長年待ち続けてやっと与えられたのがイサクと名づけられた一人息子でした。しかし、そのイサクを献げなさいというのが神の命令だったのです。これはアブラハムにとって大きな試練であり、神の試みだったのです。
 子孫を増やすと約束したのに、その子を殺せという矛盾した神の命令でした。焼き尽くす献げものとは、読んで字のごとく生贄の動物を完全に焼き尽くし、その煙を天の神に捧げるというものです。神の試みというものは、しばしばこのように人の目から見るならば、矛盾したものと映ることが多いのです。
【神への服従】
 そして、アブラハムはこの命令に対して絶対的に服従していくわけです。ここで聖書は出来事だけを淡々と記しています。ここに登場するアブラハムやイサクという人間の心情を無視するかのように、そこには触れず出来事だけが記されているのです。
 つまり神に服従するということは、私たちの思いを無にするところにあるのです。私たちは何かを手に入れると、まるで自分の力で手に入れ、それが自分の物となり、自分の自由になると錯覚してしまいます。しかし、本来それらはすべて与えられたものであり、預けられているものであるということに立ち返らなければならないのです。
 よく考えて見てください。私たちが自分で所有していると思っているものが、本当に自分の自由になるものなのでしょうか。もちろん、なかには表面的にそのようになるものもありますが、本当に大切なもので、自分の自由になるものがあるのでしょうか。
 たとえば、自分の体はどうでしょうか。自分の体、自分の命さえ、本当は自由になんかならないのです。「自分の体のことは自分が一番よく知っている」という台詞を時々耳にします。本当にそうでしょうか。
 なぜ自分の心臓が動き、生きているのか、それを説明することのできる人はいないと思います。もちろん、科学的な説明はある程度、できるかもしれません。心臓が止まってしまった時に、心臓マッサージをしたり、電気ショックを与えたりという、蘇生方法はありますが、それらは反応として心臓を蘇生する方法であって、本質的な何故とか、どうしてという問いに対する答えではありません。
 自分の意思によって生まれ、自分の意思によって死ぬことのできる人というのは、ひとりもいないのです。そういう意味で私たちは自分の体さえも、与えられたものであり、預かりものであるという事を自覚しなければならないのです。
【アブラハムの葛藤】
 さて、先ほども少し触れたように、聖書はアブラハムやイサクの心情に触れていませんが、そこにはこの物語の読者が自由に想像するための余地が残されていると解釈することができます。そして、そこには正解はありません。
 ですから、アブラハムに共感しても良いし、反感をもたれても構わないのです。しかし、アブラハムが何も感じないで、このような行動に、それこそ神に操られたロボットのように行動したのではないと、私は思うのです。もちろん、何も感じなかったと思われても構いませんが、私はアブラハムも一人の人間だから、いろんなことを感じたと思うのです。
 神に向かって、何故、という問いかけがあったと思います。でもその問いかけに対する答えは出てこないのです。そうすると次にどんな感情が生まれるでしょうか。もしかすると神に対する怒りのような思いが込み上げたかも知れません。しかし、いくら怒ったとしても相手は神ですから、どうにもしようがありません。
 次に現実に目を向けるならば、愛する一人息子を犠牲として捧げなければならない悲しみの感情が湧いてくるのではないでしょうか。または、息子を殺さなければならない自分自身に対する、情けなさといった感情が生まれるかも知れません。様々な思いが、それぞれに起こされ、整理の付かないような葛藤があったと思うのです。
 同じようにイサクにも様々な思いがあったと思います。イサクの年齢について聖書は触れていませんから、何歳くらいだったかは分かりませんが、薪を背負うことが出来る年齢ですから15、6歳の少年だったと思います。ですから、いろいろと考えたはずです。祭壇を作るための薪や火や刃物といったツールは揃っている。でも、肝心な生贄としての動物がいないことに気付いているのですから、言いようのない不安を抱えていたのではないかと思います。
 そして、最終的には父アブラハムによって縛られ、祭壇に寝かされ、刃物で殺される寸前まで来ているのです。いくら神の命令とはいえ、イサクの心には大きな傷が残ってしまったはずです。
 このように見ていくと、信仰を全うするためには必ず大きな試練に会うと思うかもしれません。しかし、この出来事を、そのまますべての信仰者が自分に起こる出来事として当てはめることは賢明ではないと思うのです。アブラハムとイサクという人物は、信仰の父と呼ばれ、この後、イエス・キリストまで続く信仰の系図の中で重要な位置を占める人々なのです。ですから、このような試練を通して成長する必要があったのです。つまり、それぞれに応じた試練が与えられるということです。
【ヤーウェ・イルエ】
 そして、この物語は、この出来事を通して神の新しい姿を示します。それは1節に出てくる、アブラハムを試みる神から、14節にあるように「イエラエ」と呼ばれる、備える神への変化なのです。しかし、この変化は、試みる神がなくなって、備える神に変ってしまうということではありません。試み、備えるという矛盾をあわせ持つ神として表されるのです。
 イエスは主の祈りの中で「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈られました。試みにあわせずと書かれているので、試みが否定されているように感じるかもしれませんが、そうではなく、試みはあるのが前提です。
 そして、そこから逃げるのではなく、あえて試みに向かって立ち、その先に備えられている祝福へと、目を向けていく事が信仰者として大切な視点となっていくのです。
 アブラハムの生涯を見ていく時、そこには、まだ見ぬものを信じて進むという信仰姿勢を見ることが出来ます。信仰とは、まだ見ぬものを信じ、そこに信頼し、希望を見出していくことなのです。しかし、私たちは、まだ見ぬものに目を向けようとするならば、大きな恐れ、不安によって心が支配されてしまいそうになるのです。
 実際、不安が心を支配してしまって、身動きが取れないようになることもあるのです。それが現実かも知れません。アブラハムのように強くなれない、私たちだという事が現実なのです。
 しかし、ここに書かれているように「イエラエ」「主の山に、備えあり」と告白していく時、すべてのことが、既に神によって準備されているという事に気付かされていくのではないでしょうか。

祈 り
讃 美   新生507 主の手に委ねて
献 金
頌 栄   新生672 ものみなたたえよ(B)
祝 祷  
後 奏