前 奏
招 詞   イザヤ書26章19節
讃 美   新生120 主をたたえよ 力みつる主を
開会の祈り
讃 美   新生 59 父の神よ 汝がまこと
主の祈り
讃 美   新生495 主よ み手もて
聖 書   エフェソの信徒への手紙5章6~14節
                      (新共同訳聖書 新約P357)
宣 教   「明らかにされる時」    宣教者:富田愛世牧師
【召天者を覚える日】
 今日は召天者を覚える日の礼拝です。多くのキリスト教会では召天者記念礼拝と呼んでいますが、そこには二つの意味があると私は考えています。一つは、召天者を覚える日の礼拝という名称そのもので、先に天に召された兄弟姉妹を思い出し、彼らの地上での生というものを証し、記念として覚えていくことです。
 よくお葬式で「仏教では何回忌と言って定期的に亡くなった方を供養するが、キリスト教ではどうするのですか」と質問されます。本来根本仏教では、亡くなった方の供養という発想はなかったはずです。しかし、日本に仏教が土着するために、元々あった習慣を取り入れたために「供養」ということが始まったのです。思想的には死者の「たたり」を恐れた行為なのです。
 これに対してキリスト教では「たたり」という思想がありません。亡くなった方は、神と共にあり、平安の中にいると考えますので、基本的には供養をする必要を感じていないのです。
 しかし、私たちの行なっている「礼拝」という行為は、全知全能の神を崇め、賛美するわけですから、そこには、先に天に召された方々も共におり、礼拝していると考えるわけです。礼拝という行為は、ある意味では時空を超えて行なわれているのです。ですから、毎週の礼拝でも召天者を覚えているし、この市川大野教会では年に一度、特別にそのことを覚える礼拝を行なっているということなのです。ですから「供養」はしませんが毎週覚えていると言えるのです。
 また、もう一つの意味は、私たちの行くべき場所を確認するということなのです。ヨハネ福音書14章1~4節に「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」とあります。イエスが十字架に架かられる前の晩に弟子たちに語った言葉です。
 先に天に召された方々を覚えるということは、そこに希望があるからなのです。もし何もないのならば、虚しいだけの行為です。
【明らかにされる時】
 今日は「明らかにされる時」というタイトルをつけましたが、何が明らかにされるのでしょうか。それは、私たち自身が明らかにされるということなのです。つまり、私たち一人ひとりが光りの子か、闇の子か、ということが明らかにされるというのです。
 このように言うと、何か「裁きの時」のようなイメージをもたれると思います。しかし、私たちが一般的にイメージする裁きの時とは違います。
 私たちがイメージする「裁きの時」とは、死んだ後の出来事ではないでしょうか。日本的にイメージすると、死んだ人は三途の川を渡って、閻魔大王の前に行き、そこで質問され、生前善いことを行なえば極楽に行くことができ、悪いことを行なってきた人は地獄に落とされてしまうというものではないでしょうか。
 ここまで具体的ではなくても、そんな感じのイメージを持つ方が大多数なのです。クリスチャンの中にも死んでから、神の前に引き出され、天国と地獄へ振り分けられると思っている人が多いのではないでしょうか。
 はっきり言って、そのようなイメージは間違いです。14節のカッコの中には「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ」とあります。死んだら裁きを受けるということではないのです。肉体の死という出来事は、罪の結果です。つまり罪を犯した人間の受ける裁きが、肉体の死なのです。と言うことは、死んでからではなく、死ぬことそのものが、すでに裁きになっているのです。肉体的な生命も、もちろん大切なものです。しかし、ここで語られることは、そういった限定的な事柄ではありません。私たちの魂を扱っているのです。
 裁きというものは、必ずあります。しかし、それは死んでからの「ある時」に起こる出来事ではなく、今も起こるし、これからも起こり続ける出来事なのです。明らかにされるのは、既に死にいく肉体を持っている存在だということが明かされるのです。つまり、罪という闇の中に私たちはいるということなのです。
【闇の中】
 それでは、闇の状態とはどういったものなのでしょうか。それは、むなしい言葉、つまり偽りの言葉に満ち、罪の誘惑によって闇の仲間を求め、生産的なことをするのではなく、実を結ばないということなのです。
 このように言われると本当にその通りだと、私には思えるのです。私たちの周りには、むなしい言葉が満ち溢れています。もちろん、すべての人が、他人を騙そうとしてむなしい言葉を使っているわけではありません。多くの場合は、他人を騙すのではなく、自分をよく見せようとしてむなしい言葉を使ってしまうのです。
 「嘘が嘘を呼ぶ」とか「嘘に嘘を重ねる」と言いますが、一度嘘をつくと、その嘘のためにさらに嘘をつかなくてはならなくなります。誰でも人から良く見られたいのです。しかし「いい人」なんていないのです。だから「私はいい人よ」なんて嘘はつかなくていいのです。
 皆さんは暗い所が好きでしょうか。生物学的には人間は光を求めるそうで、暗い所にいると不安を覚えるそうです。不安な時にはどうするでしょうか。仲間を求め、仲間と一緒にいることによって安心、平安を得ようとします。罪という暗闇の中にいる人間も同じ事をするのです。
 一人では不安なので、同じ罪を持つ仲間を作ろうとするのです。そして、一時的な安心を得るのです。しかし、一時的なものは、すぐに過ぎ去ってしまいますから、とめどなく、くり返すのです。
 このこと自体が非生産的な、実を結ばない行為の代表なのです。この他にも、思い煩いと言われるものがあります。これは読んで字のごとく、思いを煩うのです。起こった出来事に対して思い悩むこともありますが、多くの場合は起こってもいないことを、悪い方へ、悪い方へと考えてどうしようもなくなってしまうのです。
 起こった出来事に対しても、最悪の事態だけを想定して、自分を追い込んでしまうのです。楽観主義が良いということではありませんが、キリストにある信仰というものは、基本的には楽観主義的な側面を持っているのではないかと思っています。
 このように罪という性質を持っている私たち人間は闇の中にいました。しかし、主なる神は、その闇の中にいた私たちを、光の中へと導き出して下さったというのです。
【闇から光へ】
 闇から光に行くには、どうすれば良いのでしょうか。もちろんキリストが導いて下さるのですから、キリストに委ねれば良いわけですが、どのように委ねていくかが、今日の箇所に記されているのです。
 それは「キリストに照らされる」ということです。それは聖書の御言葉に自分自身を照らし出すということなのです。そうするならば、自分の罪に気づいてしまうのです。気づかされてしまうのです。自分が良い人だと思っているうちは、また、良い人になれると思っているうちは、本当の自分の罪に気づいていないということなのです。
 ここで言う罪の代表は「傲慢」ということです。高ぶりなのです。ヘブライ語聖書には天使が神のようになろうとして、神の怒りに触れ、サタンになったという話があります。これも傲慢からでています。アダムとエバがエデンの園で禁断の木の実を食べたのも「神のようになれる」というサタンの誘惑の言葉を真に受けて、神のようになろうとした傲慢です。ある先生が「人を変えようとするのは他殺で、自分が変わろうとしないのは自殺だ」とおっしゃいました。傲慢というのは自分や他人を殺す行為なのです。
 こんなにも醜い人間には救いの道はないじゃないかと思われるでしょう。その通りなのです。救いようがないからこそ、徹底的に光に照らされなければならないのです。しかし、私たちは自分がかわいいので「ある程度」の悔い改めをするのです。ここが中途半端だと「喉元過ぎれば熱さ忘れ」て、傲慢に逆戻りしてしまうのです。
 自分の醜さをとことん知らされ、立ち上がれなくなった時、初めて救いの手を求めるのです。「すべてのものは光にさらされて、明らかにされます」という事です。さらされる、さらしものになるのです。それはプライドが粉々にされることです。このようにして「明らかにされたるものはみな、光となるのです」と聖書は語ります。
 自分の傲慢さ、醜さを徹底的に知らされ、さらしものにされ、プライドも粉々にされ、この先何もない、立ち上がれないというところまで来た時、光となることができるのです。

祈 り
讃 美   新生608 かなたにまばゆき
献 金
頌 栄   新生672 ものみなたたえよ(B)
祝 祷  
後 奏





















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