前 奏
招 詞   ローマの信徒への手紙12章14節
讃 美   新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
讃 美   新生105 くすしき主の光
主の祈り
讃 美   新生286 そのみ名を聞くは
聖 書   創世記27章1~10節
                   (新共同訳聖書 旧約P42)
宣 教   「祝福を受ける者」    宣教者:富田愛世牧師
【祝福とは何】
 9月から「族長物語」として創世記を読み始めました。そして、アブラハムという信仰の父の生涯を見てきました。アブラハムが最初に創世記に出てくるのが11章27節で、その後12章で神からの召命を受け、その信仰的な生涯が始まるのです。
 そして、21章でイサクが生まれるわけですが、その後も基本的にはアブラハムの生涯について語られているのです。イサクを献げなさいという22章の出来事も、イサクの話しではなく、アブラハムの神に対する絶対的な信頼の出来事でした。そして、前回お読みした25章でその死と埋葬について書かれていましたので、14章にわたって、ページ数でいくと24ページも使われていました。
 それに比べると、その息子であるイサクについては24章でリベカとの結婚の出来事が書かれているくらいで、具体的な生涯については詳しく記録されていません。25章でアブラハムの死と埋葬が記録され、19節以降でエサウとヤコブという双子の息子が生まれ、今日読んだ27章へと続くわけです。
 この27章もイサクの物語というより、新共同訳聖書の小見出しにあるように「リベカの計略」という事になっています。そして、ここに書かれていることの一つのテーマは「祝福」という事なのです。
 祝福という言葉は、教会の中ではよく耳にする言葉ですが、一般社会の中ではそれほど耳にする言葉ではないような気がします。普段の会話の中で祝福という言葉を使ったことのある方はいるでしょうか。たぶん結婚式のようなお祝いの場面ではよく使われると思いますが、その他ではほとんど耳にしない言葉だと思うのです。
 そもそも「祝福」とは何でしょうか。国語辞典によれば「前途の幸福を祈ること」と「キリスト教で神から賜る幸福」という二つの意味が書かれていました。そして、この両方に共通するものが「幸福」という事なのです。
【幸福とは】
 それでは幸福とは何でしょうか。これも国語辞典で調べてみたのですが、そこには「満ち足りた状況にあって、しあわせだと感じる事」と書かれていました。幸福としあわせは同じだと思うので、国語辞典であっても明確に説明することが出来ないようです。
 幸福、しあわせは多くの人が求めることで、様々なところで耳にする言葉だと思うのです。十年位前のTVコマーシャルで「しあわせーってなんだっけ?」などという歌を歌ったものがありました。
 ポン酢しょうゆでなくても、おいしいものを食べると幸せだと感じる人は多いのではないかと思います。それくらいの「しあわせ」で満足できることこそが、しあわせなことではないのかなとも思います。
 また、国語辞典で調べた時、もう一つ、面白いことに気付かされました。それは、この「しあわせ」という言葉が日本語には二つあるという事なのです。
 ご存じの方も多いかと思いますが、一つはさいわいという漢字ではなく「仕合せ」と書き、まわり合わせ、運、という意味を持つ言葉です。そして、もう一つがさいわいという漢字を使った「幸せ」なのです。
 この二つの言葉は耳で聞くならば、同じ音ですが、その意味、内容としては大きな違いのある言葉なのです。さいわいという漢字を使わない方の「仕合せ」とは偶然の繰り返しの中で、自分にとって都合の良いことが起こった時、安心や喜びを感じるという事であり、さいわいという漢字を使った方の「幸せ」は神の計画の中を生きる。つまり、生かされていることを知るという事だと思うのです。
 もちろん、偶然の繰り返しの中で生きることがいけないことだとは思いません。それでも構わないと思いますが、虚しくなることもあるのではないかと思うのです。だったら、神の計画の中で行かされる方が目的を明確にすることができるような気がします。
【それほど大切なもの?】
 今日の聖書には、初めに言ったように「リベカの計略」という小見出しが付いています。イサクの息子であるエサウとヤコブという双子の兄弟の間で起こる出来事が、物語として描かれていくわけですが、その前に二人の母親であるリベカという人の思いというものが、大変重要なものとして物語の底辺を流れていくのです。
 創世記25章でイサクとリベカの間にエサウとヤコブという双子が生まれますが、二人の子どもはお腹の中で、すでに争っているのです。そして、リベカが主の御心を尋ねたところ「二つの国民が、争い合うようになり、兄が弟に仕えるようになる」と語られるのです。そして、生まれた子どもたちに対し、イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛したと記録されているのです。
 この二人が成長した時、兄のエサウが狩りに出て、疲れてお腹を空かせて帰って来るのですが、その時、食事の用意をしていたヤコブに向かって「その赤いものを食べさせてくれ」と頼むのです。それに対してヤコブは「長子の権利を譲ってくれたら」という条件を出すのです。
 エサウは長子の権利を軽く見て、そんなものどうでもよいから食べさせろと言って、長子の権利を譲る約束をしてしまうのです。そして、この27章に続くのですが、ここでは老い先短くなった父であるイサクがエサウを呼んで、長子に与えるべき「祝福」を与えると語るのです。
 それを聞いていたリベカが、自分の愛するヤコブにその祝福を与えようと計略を練るという事なのです。そして、その計略にヤコブ自身も乗ってくるのです。
 客観的に見るならば、ヤコブは兄を押しのけ、祝福を奪い取っているのですが、事の初めは、兄であるエサウが長子の権利、祝福を受けることに対して、それが大切なものであるという事を理解していなかったことにあるのです。
 神の祝福という事を、私たちはどのように理解しているでしょうか。もしかすると兄であるエサウのように、目の前にある何かに惑わされているのかもしれません。神が祝福してくださるという事は、私たちが満ち足りた状況に置かれ、神にとって大切な存在、愛すべき存在だという事を表しているのです。
【祝福を受ける者】
 最近「カスタマーハラスメント」という言葉が話題となっています。お店などで、お客が横柄な態度に出て、店員を困らせているというのです。お客が横柄な態度の出る根拠の一つとして「お客様は神様です」という言葉があるようです。国民的歌手の三波春夫さんが語った言葉ですが、大きな誤解のもとに使われているそうです。
 しかし、ここには日本人の神観が如実に表れているような気がします。こっちは客であり、神さまなのだから言う事を聞け。という事なのでしょうが、聖書の神は「つべこべ言わずに言う事を聞け」という神ではありません。「祝福を与える」と語る神なのです。
 聖書の神はすべての人に祝福を与えたいと願っています。さらに礼拝者、神の名を賛美する者、神の前に祈る者には、さらに大きな祝福を与えると約束されるお方なのです。しかし、私たちは目の前にある、様々なものや事柄に目を奪われて、その祝福を逃しているのかもしれません。
 詩篇16篇2節に「主に申します。『あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。』」と書かれています。神が共にいてくださる事が幸いであり、それが祝福なのです。ヤコブが求めたものはこれなのです。
 私たちの教会では来週の日曜日にオープンチャーチを行います。クリスマスカフェと銘打って地域の人に教会を開放します。そして、次の週からアドベントに入るわけです。クリスマスという時は日本の社会にも受け入れられ、教会にとっては絶好の伝道の時となっています。
 それはタイミングとしてだけでなく、クリスマスの本当の意味を伝えることによって、神の計画を伝える絶好の時でもあるのです。神が人々に与えようとしている祝福とは、神が共にいてくださるという事です。つまり、インマヌエルの神の到来がクリスマスなのです。
 貧しい家畜小屋と呼ばれていますが、当時のユダヤにおける普通の家庭に人として生まれたイエスがキリスト、救い主なのです。そして、その姿は敵をなぎ倒すようなヒーローの姿ではなく、名もなく、貧しく、傷つき、倒れやすい、私たちと同じ姿で来られたのです。

祈 り
讃 美   新生576 共に集い
献 金
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏