前 奏
招 詞   ヨハネによる福音書1章51節
讃 美   新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
讃 美   新生363 キリスト教会の主よ
主の祈り
讃 美   新生453 こころの扉
聖 書   創世記28章10~22節
                      (新共同訳聖書 旧約P46)
宣 教   「マザコンからの自立」    宣教者:富田愛世牧師
【イサク一家】
 先週から族長物語の3人目としてヤコブの物語が始まりましたが、登場する人々の人間関係が複雑というか、私たち日本人にはなじみの薄い、カタカナの人名が並べ立てられています。少し整理しながら読み進めなければ、分からなくなると思いますので、繰り返しになりますが、25章から見ていきたいと思います。
 25章7節でアブラハムが死んだ後、正妻であるサラの子どもですが、アブラハムの子としては次男となるイサクが族長として、その後を継ぐわけです。そして、同じ25章24節以降にイサクの子としてエサウとヤコブという双子が生まれるわけです。
 この双子は母親であるリベカのお腹の中にいた時から争っていたと記録されています。そして、生まれる時も先に出てきたのはエサウでしたが、ヤコブはエサウのかかとをつかんでいたと記録されています。
 そして、成長していく中、兄のエサウは「巧みな狩人」となり、弟のヤコブは「穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」と記録されています。さらに、その続きには、このようなことをわざわざ書かなくても良いのにと思えるようなことが書かれています。それは28節にあるように「イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した」と記録されているのです。
 昔ながらの家父長制度の中では、男は外で働き、女は家の中の働きをするという考え方がありますが、この当時のパレスチナ地方でも同じような考え方があったようです。長男として後を継ぐ者は、勇敢で、たくましく、野山を駆け巡って、獲物を捕ってくるというのが「父」に愛される条件だったようです。
 エサウはまさにその通りの長男でした。しかし、弟のヤコブは「穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」ということで、いわゆる家事手伝いをしていたようです。
 このような家族関係の中で前回お話したように、ヤコブがエサウから長男の権利を奪い取ってしまう訳です。しかし、それは母親であるリベカの計略で、ヤコブは母親の言うとおりに行動していたようです。現代的に言えばマザコンだったという事です。
【ヤコブの旅立ち】
 そのような事件が起こった後、兄のエサウは弟のヤコブを憎むようになり、父イサクが死んだら、弟のヤコブを殺し、自分が後を継ぐのだと心に決めたようです。
 心に決めただけなのですが、なぜか母リベカにそのことが知れてしまうのです。母リベカは自分の兄であるラバンという人の所へ逃げるよう、ヤコブに勧めますが、同時にそこで妻をめとるようにも勧めているのです。
 そして、28章を見ると1節以降に「イサクはヤコブを呼び寄せて祝福して、命じた。『お前はカナンの娘の中から妻を迎えてはいけない。ここをたって、パダン・アラムのベトエルおじいさんの家に行き、そこでラバン叔父さんの娘の中から結婚相手を見つけなさい』」と命じているのです。たぶんリベカの入れ知恵だったのだろうと思います。
 イサクはヤコブをパダン・アラムへと旅立たせるのですが、イサクの本心としては、兄であるエサウを後継者にしようとしていたはずです。しかし、リベカの計略によって長子の権利、祝福をヤコブに受けさせてしまったわけですから、ヤコブを後継者としないわけにはいかなかったのだろうと思います。
 もしかするとヤコブを本当の後継者とするために一人で旅立たせ、ヤコブを試したのかもしれません。この当時の旅というのは、現代の旅とは全く違うものだったと思います。今でも飛行機や列車が事故に合う可能性はゼロではないのですからリスクはあります。しかし、この当時のリスクと比べるなら桁違いのものだろうと思います。
 パウロもその伝道旅行の中で、様々な苦難を乗り越えていますが、旅の途中での苦難についてコリントの信徒への手紙二の11章26節以下で「しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、荒れ野での難、海上の難、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」と語っています。
 パウロの時代は2000年前の1世紀で、ヤコブの時代はさらに2000年近く前の出来事だとされているわけですから、もっと困難な旅だったと思われます。ヤコブにとって、この旅はとても辛いものとなったに違いありません。
 今までは何かあれば、いつも母親が守っていてくれました。しかし、この旅の間は自分の身は自分で守らなければならないのです。この旅によって後継者としての力量が認められ、さらに母親の守りから自立することが出来ると期待されたのではないかと思うのです。
【主の恵み】
 ヤコブ自身、大きな不安を抱えての旅立ちだったと思います。そして、今日の聖書箇所に続くわけです。ここではべエル・シェバを立ってハランに向かったと記録されています。
 べエル・シェバはエルサレムの南西60キロくらいの所にあり、そこから北へ向かって旅を始めたのだろうと思います。そして、ベテルという場所で、今日の聖書箇所での出来事が起こるわけですが、この当時は、まだ何もない荒野だったようです。
 日が暮れたのでヤコブは野宿することにしました。11節の後半を見ると「ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった」とあります。快適ではない旅の始まりですが、ここで不思議なことが起こるのです。
 夢の中で天から階段が伸びて来て、神のみ使いが上ったり下ったりしていたというのです。天からの階段とは、全き主の恵みを表しているのです。口語訳聖書では「階段」ではなく「はしご」と訳されていました。しかし、ここに含まれる意味を考えると階段と訳された方が、より正しく理解できると思うのです。
 天まで届く階段と言われると、エジプトのピラミッドを創造することが出来ると思うのです。ヘブライ語聖書の出来事に照らし合わせるなら「バベルの塔」も似たようなものだったのかもしれません。
 人間が神のようになりたいと願う時、神に近づきたいと思った時、何をしたでしょうか。天に向かって高い塔を作ろうとするのです。エジプトのピラミッドもそうですし、ヘブライ語聖書のバベルの塔も同じです。このような建築物は世界中に見ることが出来ます。そして、時代的にも、数千年前から現代にいたるまで、続いているのではないかと思います。そうやって人間は神の怒りを買ってしまうのです。
 しかし、ここでは反対の出来事が起こっているのです。人間が天に向けて階段を伸ばそうとしているのではなく、主なる神が地に向けて階段を降ろしているのです。そして、ヤコブに近づいてくださったのです。地から天へ向けた行動には、罪が見え隠れしますが、天から地へ降ろされるものは恵み、祝福、哀れみなのです。
【ヤコブの誓い】
 ヤコブは兄であるエサウの怒り、憎しみから逃げるため、ハランへの旅に出ました。旅に出たというと自発的なことのように聞こえるかもしれませんが、本当は兄エサウの怒り、憎しみからの逃亡です。逃亡者としてのヤコブには守ってくれる母親の存在もなくなっていました。
 居心地のよかった家から離れ、孤独を感じ、不安の中にいたヤコブに対して、神は救いの手を差し伸べられたのです。神は夢を用いてヤコブと共にいてくださるという事を伝えました。今までは母親が自分を守ってくれる存在でしたが、それは限定的なものでしかありません。いつまでも、永遠に守り、支えてくださるお方の存在に気付かされたのです。
 15節で神は「見よ、わたしはあなたと共にいる」と語っています。ここでもインマヌエルの神であるという事を宣言してくださるのです。神が共にいるという事以上に私たちを励まし、勇気を与える言葉はありません。
 ヤコブは神が共にいてくださることを知り、恐れおののいているのです。そして、感謝をささげ、信仰の告白をしているのです。18節を見ると「ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた」とあります。
 さらに20節以降には、ヤコブが立てた誓願が記録されています。神が共にいてくださることに対する感謝、神の守りと支えに対する感謝、神が全てを備えていてくださることへの感謝を礼拝という形で表し、十分の一を捧げるという具体的な行動によって表すと約束するのです。

祈 り
讃 美   新生629 主にすべてを
献 金
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏