前 奏
招 詞   イザヤ書11章1~3節
讃 美   新生  8 主の呼びかけに
開会の祈り
讃 美   新生157 来れ 友よ 喜びもて
主の祈り
讃 美   新生195 待ちわびし日
聖 書   ヨハネによる福音書3章16~21節
                      (新共同訳聖書 新約P167)
聖歌隊賛美 「みくにをも みくらをも」
宣 教   「光のもとへ」    宣教者:富田愛世牧師
【クリスマスの喜び】
 今日は12月24日でクリスマスイヴと呼ばれていますが、本来クリスマスイヴというのはクリスマスイヴニング、つまり、クリスマスの夜を意味しています。ユダヤの習慣では日暮れから一日が始まりますので、24日の日暮れからがクリスマスとなり、そこで捧げられる礼拝がクリスマスイヴ礼拝でした。そのような関係で24日をクリスマスイヴと呼ぶのだと勘違いしてしまったようです。
 別にどうでもいいことですが、クリスマスについての様々な誤解を教会では正していきたいと思っています。ちなみにクリスマスはイエスの誕生を記念し、お祝いする日であってイエスの誕生日ではありません。聖書にはイエスの誕生日についての明確な記述がないので分かりませんが、少なくても冬の時期ではないようです。
 このクリスマスを迎えるに当たって教会では4週間前からアドベントという期間を過ごします。毎週、礼拝の時にアドベントクランツに飾られたロウソクに一本ずつ火を灯し、イエスの降誕を待ち望むわけです。ただ、待ち望むと言っても、人それぞれ受け止め方は違うのかもしれません。
 ある人は嬉しい気持ちで、喜びの時として待ち望むでしょうが、別の人は「何を浮かれているのだ」という思いや喜べない現実の中で複雑な思いを抱えて待ち望むかもしれません。どちらが正しいかという事ではなく、状況に応じて様々な受け止め方があって良いのではないかと思います。
 教会では、今言ったように様々な受け止め方がありますが、世間一般ではお祭り的な感覚で楽しい時として、浮かれた気分でクリスマスを過ごす人が大多数だと思います。
 以前「愛と狂瀾のメリークリスマス」という本を読みました。そこには「なぜ異教徒の祭典が日本化したのか」という副題がついていて、とても興味深い内容でした。大まかに言えば、明治期に欧米の近代文明を取り入れるにあたり、キリスト教抜きに取り入れることは出来ないが、積極的にキリスト教を受け入れることもできない。そこでキリスト教に従属しない方策として、クリスマスだけを派手に祝うことにしたそうです。それが現代にまで続いているという事なのです。
 それに対して、教会では本来の意味から逸脱しているのでいかがなものかという人々が現れたようです。私も昔はそのように思っていました。これは正論ですから否定のしようがない真実です。
ただ、イエス誕生に際して天使が告げた「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」という言葉がありました。ですから、どのような形であっても、人々が喜んでいるなら、それでも構わないのかなと思うようになったのです。もちろん「喜び」の本質は違うかも知れません。
 また、この時期、様々な事情の中で、喜べない、喜んでなんかいられないという人もいるのは事実です。そのような人にとっては、どうぞ勝手に浮かれていてくださいという事になるのかも知れません。
 いずれにしても、今日、クリスマス礼拝にヨハネによる福音書3章16節が選ばれたことには大きな意味があると思うのです。喜べる人にも喜べない人にもクリスマスの本質を理解するために、この聖書箇所は大切な個所、必要な個所なのです。
【世を愛された】
 まず16節を読むと「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と書かれています。神は何をされたのでしょうか。読んだまま「世を愛された」というのです。どれくらいの思いで世を愛されたのか。それは、その独り子をお与えになったほどなのです。
 ただ、愛したのではなく、独り子を与えても惜しくないくらいの思いを持って、この世を愛されたというのです。これが大前提となっているのです。私たちの常識や多くの宗教では神の存在を崇められるべきものや人を裁く裁判官のような存在として見ている傾向があります。
 しかし、聖書の語る神は偉そうにふんぞり返って、人の悪行を裁く存在ではなく、愛されるお方だと語るのです。
 そして、世とは何を指しているのでしょうか。続きを読むと「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と書かれているので「独り子を信じる者」だけを指しているように思えるかもしれませんが、その前に「世」と語っているわけですから、そのような限定的なものを指しているのではなく、全人類、さらに命ある存在すべてを指していると解釈しても構わないと思うのです。
 そして、神が与えてくださった御子イエスの使命は「世を裁くためではなく、世が救われるためである」と書かれているのです。世と表現されている、私たち一人ひとりの人間を救うためにイエスは来られたと語っているのです。
【裁きとは】
 もう30年以上前のことですが、ある方から抗議の電話を受けたことがありました。その方は聖書を読んでいて納得のいかないことがあるという事で教会に電話をしてきたようなのです。
 その内容は「ヨハネによる福音書を読んでいたのですが、3章16節から読んでいると『神は世を愛された』というところは理解できるけれど、次にあるように『御子を信じる者が永遠の命を得る』とか18節にあるように『信じない者は既に裁かれている』と書かれている。つまり、私のような信じていないものは裁かれて、永遠の火で焼かれ、苦しみ続けなければならないのか」そして「キリスト教はクリスチャン以外の人間を排除するのか」という事でした。
 確かに18節を見るとそのように理解できるかもしれません。しかし、どのような流れの中で、その言葉が書かれているのかを理解しなければ、その言葉の真意は伝わらないのではないでしょうか。
 ここには「イエスは救うために来た」という事が大前提として書かれているのです。そのことを信じない、または、信じられないという事は、残念なことなのだという事なのです。そのように信じられないという事が「裁き」という現実なのだと語っているのです。
 世にある多くの宗教は、御利益宗教といってもよいくらい「私たちの信じる神であったり仏であったりを信じるなら幸せになれます」「家内安全、無病息災、商売繁盛」という事を謳っています。さらにカルト的な宗教に至っては、一度入信したなら、今度は修行したり、霊的といわれる物品を購入させられたり、献金を強要されたりするわけです。それを拒むと「神なり、仏なりの裁きが下る」と脅しをかけるのです。
 そこまでいかなくても、そのような雰囲気をやんわりと作っていって、今ではないけれど将来、死んだ後、教団に従順でなかったり、善行を積まなかったりした者は「地獄の炎で永遠に焼かれる」とか「永遠の苦しみに遭う」いう事を信じ込ませるのです。
 それに対して、イエスは福音を語りました。福音という言葉は元々「戦勝報告」という意味の言葉を語源としています。戦争に勝ったという報告を受けたのに、それを信じないで「まだ戦時中だ」と思って行動するという事は、非常に愚かな事です。それと同じことが、福音を信じないこと、つまり、イエスを信じないことだと語っているのです。
【キリストの救い】
 それではイエスの語る「救い」とはどういうことなのでしょうか。それは神が共にいてくださるという事なのです。
 イエスが誕生する時、その両親であるマリアとヨセフは、まだ婚約中でした。しかし、聖書は婚約中のマリアが聖霊によって身ごもったと記録しているのです。そして、そのことを知った婚約者であるヨセフは、戸惑いながら、密かに縁を切ろうとするのです。
 この時のヨセフの気持ちが、どのようなものだったのか、聖書は何も記録していません。ただ、どのような行動を起こそうとしたのかという結果だけを記録しています。ですから私を含めた多くの説教者たちが、想像力を振り絞って、こうだったかもしれない、ああだったかもしれないと、様々な説を語ってきました。
 そして、そのような推測を振り切った形で、一つの着地点が聖書に記録されているのです。それは天使の言葉でした。マタイによる福音書1章20節以下に「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」そして23節で「その名はインマヌエルと呼ばれる」というものでした。
 インマヌエル、それは神が共にいてくださるという意味の言葉です。イエスの誕生によって、この言葉は現実になると聖書は語っているのです。そして、このイエスの生涯を福音書と呼ばれる四つの書物が記録しています。
 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、それぞれが違う立場から、違う目的を持ってイエスの生涯を記録しているのです。そして、これら四つの福音書に共通するものとして、イエスは人としてこの世に生まれ、私たちと同じように喜び、悲しみ、苦しみ、辛さを経験されました。
 そして、神を信じれば、それらの苦しみや悲しみがなくなるとは言わず、苦しい時、悲しい時は共に悩み、涙するよ。反対に楽しい時、嬉しい時は共に笑うよ。と語っているのです。
 クリスマスとは、このイエスに、私たちの心を明け渡し、さらに、隣りにいる人と分かち合うことを大切に思う時なのではないでしょうか。

祈 り
讃 美   新生167 天にはさかえ
献 金
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏