前 奏
招 詞   ヤコブの手紙4章10節
讃 美   新生  8 主の呼びかけに
開会の祈り
讃 美   新生 92 喜びたたえよ
主の祈り
讃 美   新生205 まぶねの中に
聖 書   創世記33章1~9節
                   (新共同訳聖書 旧約P56)
宣 教   「和解」    宣教者:富田愛世牧師
【和解とは】
 今日のテーマは和解ということですが、和解とはいったいどういうことでしょうか。これは一言で説明できるような内容のものではありません。一人ひとり、様々な課題を持っているわけですから、それらに当てはめて和解ということを理解しようとするので、十人いれば、十通りの和解に対する定義というものが生まれてしまうと思います。
 しかし、そんな事を言っていても話は始まりませんので、一定の共通理解を得なければならないと思います。国語辞典には、一般論として仲直りすること、という意味と、裁判において、争っている当事者が互いに譲歩して、その間にある争いをやめることを約する契約となっていました。ただここで私たちが考えることは、裁判の出来事ではなく、生活の出来事なので、一般論としての仲直りということに焦点を当てて考えたいと思います。
 仲直りするためには、何が必要でしょうか。それは、謝る事と赦す事です。この二つが大切ですが、より重要なことは赦す事だと思います。
 争いにおいて、どちらが加害者で、どちらが被害者かという事を分けることは難しいことですが、あえて分けるとするなら、加害者が謝り、被害者が赦すならば、そこに和解が成立します。
 もし、加害者が謝っても、被害者が赦さなければ、和解は成立しません。反対に加害者が謝らなくても、被害者が赦したとするなら、どうなのでしょうか。現実には、あり得ないような状況ですが、一方的な赦しによって和解が成立するということもあるのです。今日の箇所に目を移すなら、ヤコブとエサウは、どちらが加害者で、どちらが被害者なのでしょうか。
【ヤコブの生き様】
 それを知るためには、二人の生き様を見ていく必要がありますが、残念ながらエサウについては、途中の事柄が何も記録されていないので、ヤコブの生き様から、それを探っていくしか方法はないと思います。
 まず二人の出生ですが25章24~26節を見ると「月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。 その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった」 と書かれています。生まれる時から兄エサウの足をひっぱり、自分が先になろうとしているのです。
 次に25章29~34節では「ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。エサウはヤコブに言った。『お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。』彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った。『まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。』『ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい』とエサウが答えると、ヤコブは言った。『では、今すぐ誓ってください。』エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた」と書かれています。
 ここでは、お腹をすかせたエサウをそそのかして長子の権利を奪い取るヤコブの姿が描かれていますが、同時に目の前のものに心を動かされて、大切なものを失ってしまうエサウの愚かさも描かれています。
 さらに27章では、父イサクがエサウに祝福を与えようとした時、それを盗み聞きしていた母リベカの入れ知恵によって、祝福をだまし取っているヤコブの姿が描かれています。これによってヤコブは兄エサウの怒りを買い、エサウはヤコブを殺そうとまで、思うようになったのです。このエサウの思いを知った母リベカはヤコブを自分の兄でハランに住むラバンのところへ逃がし、そこで妻をめとるように勧めるのです。
 リベカにとっては「しばらく」ラバンのところに滞在させるつもりでしたが、結果的には20年という長い年月をそこで過ごさなければならなくなってしまったのです。ラバンのところでも、見方によっては、ずるがしこく立ち回って、財産を手に入れたようにも取れます。
 このように、人を押しのけ、だまし、奪い取るような男としてヤコブは描かれています。しかし、そんなヤコブに転機が訪れるのです。31章3節に「主はヤコブに言われた。『あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる』」と書かれています。神からの語り掛けによって、生まれ故郷に帰るように促されるのです。しかし、ヤコブには不安がありました。それは兄エサウの怒りでした。
【ヤコブに走り寄るエサウ】
 ヤコブは故郷に帰り、エサウの赦しを得るために、前もって使いを遣わし、さらに贈り物を用意しました。贈り物によってエサウの怒りの気持ちをなだめようとしたのです。ところがヤボクという所に来た時、神の使いが夢に現われました。そして、ヤコブと格闘し、ヤコブは祝福を勝ち取っているのです。この出来事が、この後のヤコブにとって大きな出来事となりました。
 神の使いと格闘し、祝福を与えてくれるまで離しませんと、執拗に迫ることによって、ヤコブは祝福を勝ち取りましたが、同時に神が共にいてくれるという確信を得る事ができたのです。神が共にいてくれるという確信によって、ヤコブから恐れが消え、兄エサウに対する態度にも謙虚さが見られるようになり、エサウに対して謝罪する事ができるようになるのです。
 しかし、完全に100%変えられたのかというと、そうではありませんでした。今日の箇所を読むならば、自分の陣営を三つに分けるような用心深さというか、疑い深さは、まだ残っていました。しかし、兄エサウに対して七度ひれ伏すという謝罪の姿も与えられるのです。
 ところが、この物語で、私たちを驚かせるのは、兄エサウの行動です。エサウはヤコブを見つけると、走りよって、抱きしめ、口づけし、再会を喜んでいるのです。そこには20年前の恨みや怒りは全く見られません。エサウの完全な赦しによって和解が成立しているのです。エサウはヤコブが謝罪したから、赦したのではなく、最初から赦していたのです。それは、自分の弟であるヤコブを愛していたからではないでしょうか。
 エサウについてはローマ9章13節やヘブル12章16節によって、不品行な俗悪者というレッテルが貼られていますが、それぞれの箇所を文脈に沿って読んでいくなら、それはエサウに対する断罪ではなく、その行いに対する一つの例として、注意しなければならないことを示していることに気付くと思います。
 さらに加害者としてのヤコブと被害者としてのエサウ、また加害者を赦すエサウ、そして、祝福を受け継ぐヤコブと祝福からもれてしまったエサウ、という構図が、私たちの常識的な理解と神の計画の違いということに気付かせてくれるのです。
【神との和解】
 傷つけた加害者は、傷つけられた被害者に赦されない限り、一生その重荷を背負い続けることになるのかもしれません。人と人との和解というものは、それくらい難しいものだと思います。
 ヤコブとエサウの関係にしても、20年という長い年月が、和解のためには必要だったのかもしれません。そして、和解したからと言って、それ以前と同じような関係になるとは限らないのです。
 このような難しさはありますが、聖書はそこに大きな希望を与えてくれるのです。それは神との間に和解が成立しているという福音なのです。
 仙台福音自由教会の吉田耕三という牧師のメッセージに素敵な言葉があったので紹介したいと思います。
ある方が神の愛を細かく分けて以下のような文章を作られました。
神は私を愛して下さるので、私に忍耐して下さる。その忍耐は驚くほどである。
   〃         私を無価値な者のようにあしらわれることはない。
   〃         私がだれからも理解されないで悲しむとき、
   〃         私を理解し慰めてくださる。
   〃         私が諦めたくなっても私のことを諦めないで育ててくださる。
   〃         御心にかなう歩みが出来たときには大いに喜んでくださる。
   〃         私が信頼しない時でも、私を信頼し続けてくださる。
   〃         私の環境や状況を用いて私を成長させてくださる。
   〃         私の罪を記録して機会あるごとにそれで私の頭を打ち叩くことはなさらない。
   〃         私が過ちを犯しても怒って拒否されるようなことはない。
   〃         お前には望みがないとは言わない。
   〃         たとえ多くの友が私を捨てても私を捨てることはない。
   〃         最悪に思えることの中から私に最善をしてくださる。
   〃         私が極度の憂鬱になって自分を見失うような時でも私を受け入れ、私と共にいてくれる。

 これが神の愛なのです。皆さんの中には間違った神のイメージが刷り込まれていませんか。私たちは、お祈りの時「天のお父さま」と呼びかけることがあるので、父親のイメージが刷り込まれてしまっていることが多いのです。神は責め立てたり、ほじくり出したり、いつも注意を与えるようなお方ではありません。

祈 り
讃 美   新生364 すべてのもの
献 金
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏