前 奏
招 詞   ヨハネの手紙一5章3節
讃 美   新生 26 ほめたたえよ造り主を
開会の祈り
讃 美   新生 27 たたえよあがないぬしイエス
主の祈り
讃 美   新生134 生命のみことば たえにくすし
聖 書   出エジプト記20章1~11節
                    (新共同訳聖書 旧約P126)
宣 教   「恵みの戒め」    宣教者:富田愛世牧師
【十戒】
 今日と来週は2回にわたって、モーセの十戒をテキストとして読んでいくことになっています。この十戒という言葉はキリスト教に関係のない人でも聞いた事のある言葉だと思います。映画の好きな人にとっては、チャールトン・ヘストンが主演したハリウッド映画に同名のものがありましたし、中森明菜さんの歌にも「十戒(1984)」という歌がありました。内容は知らなくても、キリスト教の掟や戒律だと思っている人も多いようです。
 そのようにイメージする理由として、十戒の「戒」という漢字が「戒め」という字だということが大きく影響していると思うのです。戒めというと、その意味が非常に限定されたものになります。国語辞典を調べると「戒め」とは、悪い事を起こさせないように注意するための言葉でした。つまり、否定的な言葉、禁止事項として用いられる言葉なのです。
 しかし、今日、私たちが読んでいる出エジプト記に書かれている十戒は、神が恵みとしてイスラエルのために与えられたものなのです。この恵みというところに十戒の本当の意味があるのです。もし、人間が作ったものだったとするならば、国語辞典に書かれている意味が正解かもしれません。しかし、これは人間が作ったのではなく、神が作り、神が人間に与えてくださったものです。だから、人間の知恵による国語辞典には収まりきらない意味が含まれているのです。
 その意味を調べていく前に、なぜ神が人間に十戒を与えられたのでしょうか。そこを考える時、人間の存在意義という事から考えていかなければなりません。そして、人間の存在意義という事を考える時に必ず出てくるのが、性善説と性悪説という学説です。日本人は儒教の影響を強く受けているので、この学説を思い浮かべ、これらに照らし合わせて考えていくことが多いように思います。
 しかし、この考え方は儒教の考え方なので、人中心の考え方になってしまいます。それに対して、聖書は神中心の考え方なので、根本的にずれが生じてしまうのです。さらに聖書を読むならば、神は愛の対象として人間を創造されたことが分かるのです。
 このように神を中心として書かれ、その対象である人間を愛しておられると理解するならば、十戒に書かれている事が否定的な事柄ではなく、肯定的な事柄であるという事が理解できるはずです。
【神中心】
 十戒は、そのまま読むと「・・・してはならない」となっていますが、本来、そういう意味で書かれているのではありません。宗教哲学者のマルティン・ブーバーという人は「あなたは・・・しないであろう」と訳すべきだと指摘します。この指摘は的を射たもので、本当にその通りだと思います。十戒だけに留まらず、聖書全体を通して流れている神の御心は、まさに「あなたは・・・しないであろう」という人間に対する信頼感だと思うのです。
 そして、この信頼感というものは、愛する者に対する信頼感なのです。私たち人間が有能であるとか、信頼するに足りる者だとか、信頼に答えるとかいう次元のものではないのです。愛しているということを実現していく信頼感なのです。
 このように神を中心にして書かれているわけですから、私たちも神を中心とした視点で読んでいかなければならないのです。
 神を中心にするという時、神とは何かを間違えてしまうと根本から間違ってしまうので、正しい神理解をしなければなりません。最近「カスタマー ハラスメント」という言葉が話題になっています。東京都が「カスハラ条例」について議論を始めたという事ですが、三波春夫という歌手が「お客様は神様です」といった言葉が独り歩きして、大きな誤解を与えたものです。
 そして、この言葉の受け止め方が、神に対する誤解の根本ではないかと思うのです。何故なら、お客が「わたしは客だ、客のいう事が聞けないのか」つまり、「神のいう事が聞けないのか」と店員を脅すわけです。
 そうなると、その人の神理解とは、人間を脅して従わせるのが神だという事になるのです。どこか上の方から人間を監視して、悪いことをしないか見張っているという関係になってしまうのです。そして「神中心」という事は恐ろしい、縛りの関係になってしまいます。
 しかし、聖書の語る神は、人間を脅して従わせる神ではありません。神は愛の対象として人間を創り、大切な存在だと語るのです。
【人の戒め】
 前に「人生を導く5つの目的」という本の話をしたことがあります。一般的には「パーパスドリヴン」「目的主導」と言われていますが、この考え方では、一人ひとりの人間はみんな神から目的が与えられているというのです。目的を持って創造され、この世に生を受けたという事は、すべての人が必要とされている存在だという事です。いなくても良い人など一人もいないという事、つまり、一人ひとりの尊厳が大切にされているという事なのです。
 神を中心にするという事は、神の愛の対象である人間を神が大切にされるように、私たちも隣り人、一人ひとりを大切にするという事なのです。
 もし、仮にこの十戒が神中心でなく、人間中心に書かれていたとするならば、どうなるのでしょうか。罪を犯さないようにするために、ここに書かれている事を守っていかなければならなくなるのです。十戒厳守という事です。しかし、それは可能でしょうか。残念ながら無理です。守りたいけど、守れない。だから不安になってしまう。裁かれてしまうのではないかと不安になってしまうわけです。
 そのように読んでいくならば、十戒とは恵みの言葉ではなく、人を何かに縛り付けてしまう恐怖の言葉になってしまうのではないでしょうか。それは神の御心ではありません。
 十戒を読む時の基本は、繰り返し申しますが、神が中心となっていて「・・・しなければならない。・・・してはならない」ではなく「あなたは・・・しないであろう」という、神との信頼関係において書かれているという事なのです。
 具体的に十戒を読んでいくならば、そこには神との関係と隣人との関係について書かれているということに気づかれると思います。十戒は、この二つの要素から成り立っているのです。
【恵みの戒め】
 今回、2回に分けて十戒を読むのは、この二つの要素を分けて読んでいくためなのです。今日の中心は、前半に書かれていることで、神との関係なのです。
 太古の昔から、すべての地域、時代で宗教というものは存在しています。なぜでしょうか。それは、人が神を求めているということの証拠なのです。
 現代社会は科学が発展し、ほとんどの事を科学で解決、解明できるかのように思い込んでいますが、科学で解決、解明できない事の方が、本当は多いという事に気づかなければならないと思うのです。特に、近年注目されていることの一つは、心の問題だと思うのです。
 ある時期、科学万能という考え方が主流になってしまったために、心がおろそかにされ、心に傷を持つ人が増えてしまいました。ある意味当然の事だったのかもしれません。
 このような人間に対して、十戒の第一戒は「あなたは私のほか何者をも神としてはならない」と語ります。他のものを神としないであろう。するはずがない。と神は語るのです。すごい言葉だと思いませんか。神自らが名乗り出てくださり、私たちに神と呼びかける事を許してくださるのです。
 第二、第三、第四の戒めも同じです。神ご自身が形あるものや見えるものに限定されるのではなく、その偉大さ、自由さを語られ、ご自身の名が神の祝福を与えること以外に使われないようにされ、休むという人間にとって大切な時について語ってくださるのです。
 しかし、人間は宗教という枠を作り始めた時、恵みの戒めを別のものに変えてしまったのです。宗教というものは必要ですが、組織や人が中心になるなら、無いほうがましです。神が中心にいなければ、その本来の目的を達成することはできないのです。
 新約聖書においてイエス・キリストは宗教の枠を取り除き、神の愛を宣べ伝えられました。律法学者に試されていることを知りながら、安息日に人を癒し、罪人と呼ばれる人々を招き食事をしたのです。もちろん、人々に教える時には「神を信じなさい」と語りました。しかし、その前に、虐げられている人々を受け入れ、神の愛を伝えられたのです。また、神の恵みから一番遠いと感じていたような罪人の隣りに座り、神の恵みを分け合ったのです。
 このイエスの行為にこそ、神との関係という十戒の前半に語られることが、すべて込められているのです。イエスご自身が律法の完成者であると語られる通りなのです。

祈 り
讃 美   新生109 ひとも ものも ときも(1~5節)
献 金
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏