前 奏
招 詞   マタイによる福音書5章17節
讃 美   新生  2 来れ全能の主
開会の祈り
讃 美   新生 87 たたえまつれ 神のみ名を
主の祈り
讃 美   新生 41 いとも慕わしきイエスの思い
聖 書   出エジプト記20章12~17節
                      (新共同訳聖書 旧約P126)
宣 教   「人間関係」    宣教者:富田愛世牧師
【社会生活】
 今日は十戒の後半部分から「人間関係」という非常に大きなテーマをあげてしまいました。私にとってはこのテーマである人間関係というのは最も苦手なことで、この関係を上手にこなしていける人をうらやましいと思ってしまいます。
 ですから、ここで富田が人間関係などというテーマでいったい何が語れるのかと疑問に思う方も大勢いることだと自覚しています。しかし、語らなければならないのが牧師の職務であり、できるから語るというのでは、いつも語っている福音の本質とはかけ離れたものになるので、恥を承知で語らせていただきたいと思っています。
 神は、その創造の秩序において「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」と語り、男と女とを創造されました。
 ただし、ここで語られる男と女とは、関係を持つべき二人という意味を持っています。ですから、性差としての男と女に限定されたものではなく、もっと広い意味で社会を形作る、一人ひとりの人間と捉えることが重要です。神が創造された世界とは、人が一人でいる世界ではなく「相手」がいるという事、複数の人が、お互いに関わり合いながら生きる世界なのです。
 日本語では「人」は成長して「人間」となると言われます。人と人との間で生きることによって、人間へと成長し、社会を形成するのです。
 人間関係を正しく保つ事は、重要だからこそ、難しい関係なのです。
 何も考えずに、大切な事ができるならとても楽な事だと思うのですが、もしそうなったとしたら、それはきっと大切な事ではなくなってしまうと思います。人間関係は大切だからこそ、しっかりと考え、ある時は悩みながら、そして、失敗を繰り返しながら、お互いに作り上げていくものなのです。
【ひとも ものも ときも】
 そして、この人間関係を円滑に進めていくために必要な事、一人ひとりが心に留めておくべき事として、十戒の後半部分が与えられているのです。ただ、何度も言うように「・・・しなければならない」という命令ではなく「・・・しないであろう」という神の信頼に基づいた言葉であるという事を忘れてはいけないのです。
 この後半について、先週の応答賛美で賛美した新生讃美歌の109番が意訳ですが、素晴らしい受け止め方で書かれているので、この賛美歌の歌詞から内容に入っていきたいと思います。
 まず基本となる事は「ひとも ものも ときも すべて主のもの」という歌詞です。ここには主なる神が絶対的な主権を持っておられる事が告白されています。人やものという物質的なものは被造物として神に造られたと理解しやすいと思います。しかし、時となると、ある意味、自然のものだから神の支配にはないように思うかもしれません。それをここでは敢えて時もという言葉を加えているのは、凄い事だと思うのです。
 この告白を基礎としなければ、後の6つの戒めは無意味になってしまうのです。だから、この後の歌詞にはすべて「だから」という言葉が入っているのです。人も、物も、時もすべて主のもの「だから」何々とつながっていくのです。神の支配の中になかったとしたならば、その後に続く事柄は何の意味もなくなってしまうのです。
 十戒の第5戒は「父と母を敬え」です。この歌詞では「だから父と母 敬い 健康祈ります」となっています。この礼拝に集まっておられる方には、私を含めて父や母の立場で長く生きてこられた人が多いので注意しなければならない事があります。それは、この戒めは、まずは子の立場で聞かなければならないという事です。
 そんな事を言っても、もうすでに私の父や母はこの世にいませんよ。という方もいるかもしれませんが、そういう事ではなく、すべての人は父や母がいた事によって、この世に生を受けたという事なのです。その事実を大切にし、また思い出しなさいという事です。
 さらに、その父や母もすべてが主のものなのです。つまり、主の計画の中で親の下に生まれてきたのであって、ひとりとして勝手に生まれた人間はいないのです。そして、一番近い関係である父や母を敬う事、そして、その健康を祈る事が人間となるための第一歩なのです。
【隣人関係】
 次にくるのは「殺してはならない」という戒めです。ここで語られる「殺す」というのは暴力的な事柄を指し、食べるために動物を殺すような時には使われない言葉なのです。この賛美では「だから生きるものの生命 わたしが守ります」と非常に積極的な解釈をしています。
 しかし、命を守るという時、一般的には必ず敵を想定し、その敵からの攻撃に対して備え、時には自分や味方を守るためには、敵を殺す事も正当化されてしまうのです。
 このような考え方に対して、十戒は「殺すな」つまり「殺すはずがないですね」と語るのです。さらにイエスは「敵を愛せ」と迫ります。ここまで言われると、十戒を守る事など到底出来ないとなってしまいます。だからこそ、神の哀れみの中で生かしてもらわなければならないのです。
 次に来るのは「姦淫してはならない」という戒めです。賛美歌では「だからひとの結びつきを おかすことはしません」と解釈されています。人との結びつきとは、社会生活における基本です。この基本的な関係を脅かすものの一つが、姦淫であって、結婚という制度的なものに限定されることではないと思います。
 不倫は文化だなどと言うおバカな俳優がいましたが、世間の常識、流れでは通るかもしれませんが、一番身近で、基本となる大切な関係を保てないなら、それ以上の関係を保つ事は、さらに難しくなるでしょう。
 次は「盗んではならない」です。これは「だからひとの大事なもの わがものとはしません」という、とてもシンプルな言葉で書かれています。この言葉には何も説明を加える必要はないと思います。隣の芝生は青く見えるかもしれませんが、一人ひとりにちょうど良いだけのマナが与えられた事を想い起こす必要があるでしょう。
 次は「隣人について偽証してはならない」です。これは「だからひとをおとしいれる 偽りを言いません」となっています。
 人は何のために、他人を落としいれようとするのでしょうか。何のために偽りを言うのでしょうか。最終的には、自分を優位に置きたいからではないでしょうか。つまり「人と比べて」という発想からくる誘惑なのです。人と比べる事にどんな意味があるのでしょうか。
 最後は「隣人の家をむさぼってはならない」です。これは「だから友の家のことを わたしも祈ります」とさらに積極的な言葉になっています。「むさぼってはならない」という言葉が出て来る時、その背景には「むさぼるかもしれない」という状況があるように感じます。しかし、この賛美歌では、そういう背景を無視して「友の家の事を私も祈ります」と解釈しているのです。でも、これが神が意図しておられる本当の意味なのではないかと思います。
【神のあわれみ】
 このように十戒の後半部分、隣人との関係という事を見ていく時、神が私たちに、これらの言葉を投げかけてくださった背景には、やはり信頼関係があったという事に気づくのではないかと思います。
 神と人との間に信頼関係がなければ、これらは厳しい命令でしかありません。それも、絶対的に守りきる事の出来ない命令であって、人間は守れずに、裁かれるしか道がないように思います。
 しかし、神は「・・・しないであろう」という期待を持って、私たちを見ていてくださるのです。そして、私たちは残念ながら、その期待に添う事はできませんが、戒めを守りきれない「私」をあわれみを持って導いてくださるのです。

祈 り
讃 美   新生109 ひとも ものも ときも(6~10節)
主の晩餐  
献 金
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏