前 奏
招 詞   マタイによる福音書5章44節
讃 美   新生  2 来れ全能の主
開会の祈り
讃 美   新生281 み座にいます小羊をば
主の祈り
讃 美   新生137 うみべの野で
聖 書   出エジプト記23章1~9節
                    (新共同訳聖書 旧約P131)
宣 教   「神の正義」    宣教者:富田愛世牧師
【契約の書】
 この出エジプト記という書物は、エジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの民の叫びを聞いた神が、奴隷生活から民を解放し、約束の地であるカナンへと旅立たせる壮大な物語ですが、20章で十戒が与えられた後、内容的には少し変化していきます。
 前半はドキュメンタリーのような感じで、全体の流れやその時々に起こった出来事が記録されています。そして、その流れの中で十戒が与えられ、後半へと続いていくのです。20章1~17節で十戒が語られますが、ここで語られる事は基本原則のようなもので、具体的な事柄はこの後、22節から語られ、一般的に契約の書と呼ばれ、23章の終わりまで続いています。
 十戒は本質的には恵みの戒めとして与えられますが、現実の社会に適応させるためには、やはり細かい規定が必要となってきます。さらにイスラエルという共同体が、これから長い年月、一緒に旅するわけですから、様々なトラブルが起こることも想定しておかなければならないのです。
 そのトラブルの中で、人間同士の「争い」という事も現実として出てくるわけです。これは、何もイスラエルだけに限られたことではなく、人間社会における永遠の課題の一つでもあるわけです。
 イスラエルの共同体は、神が中心となっているのだから「争い」が起こるわけがないと思う方がいるかもしれませんが、そんな事はありません。人が二人以上集まれば、そこに愛の関係ができる事もありますが、同じように争いも起こるのが現実なのです。
 この争いを解決するために、人間は様々な方法を考え出しました。その中で、いちばん野蛮な方法は戦争や暴力による解決です。私だけでなく、ほとんどの人がこのような解決方法だけはとりたくないと思っているでしょうが、なかなかなくならないですね。なぜなのでしょうか。その理由が分かればノーベル平和賞ものではないでしょうか。
 反対に理性的な方法が話し合いや裁判という方法なのです。話し合いで解決する事ができるならば、それがいちばん理想的な方法ではないかと思いますが、そうならないときには、裁判という方法もあるのです。
 裁判というと、とても大げさな感じがしますが、サウルやダビデといった王が立てられた頃のイスラエルでは、町の門のところに人々が集まり、長老を中心に毎日のように裁判が行われていたそうです。そこで用いられていた規範が十戒であり、契約の書だったのです。そういう意味では神を中心にした裁判だったのです。
 日本でも何年か前に裁判員制度が取り入れられました。私は今でも、とても危険な感じがしています。人々の考え方がフラットな状態ならばまだしも、何かに操作されているような気がします。青少年の犯罪が増えたと感じている人が多いようですが、実際は増えていないし、そう感じさせるのはマスコミ操作なのです。そのような方法で凶悪犯罪を中心に報道し、それに対する厳罰化が進められ、死刑を容認させるような方向に進んでいる気がするのです。
 世界では死刑廃止が進められているのに日本では8割以上の人が死刑制度を容認しています。2022年に死刑を執行した国は20あるそうですが、その中に日本も入っているのです。いろいろな考え方を持った人がいますので、危険だというところでとどめて、先に進みたいと思いますが、神の愛という基準のない裁きは恐怖しか残さないと思うのです。
【偽証してはならない】
 さて、今日の聖書箇所は十戒の中の第9番目にある「偽証してはならない」に関連したもので、3つの部分に分けることができます。1~3節は法廷における証言について。4~5節は、敵対者との関わり方。6~9節は訴訟について語られているのです。
 1節は「うわさ」に対する戒めが語られています。うわさというのは好きな人にとってはとても魅力的なもののようです。本当にそうなのか検証もせずに、人から聞いたことを鵜呑みにし、さらに尾ひれを付けて垂れ流してしまうわけですから、手に負えないようになっていくのです。うわさを流すのは悪人であって、それに加担する証言とは、そのうわさを、さらに広げることなのです。
 2節は注意しなければならない事です。ほとんどの日本人は教育や育った環境によって、民主主義は多数決が絶対だと思わされているように感じます。しかし、多数が正しいとは限らないという事を歴史は物語っているので、本当に注意しなければなりません。
 3節は貧しい人となっていますが、少数者をさしています。ですから、2節と反対に少数者をかばい過ぎる事にも注意を向けさせているのです。つまり、公正さを保つ事の大切さが語られているのです。
 4、5節では敵対者であっても、相手が困っているならば助けるように勧められています。皆さんの中には私のような人はいないと思いますが、私は意地悪な人間なので、自分の嫌いな人が困っている時「ザマアみろ」と思うことが多々あります。ただ、それだけでなく、そう思ったすぐ後に「あなたの敵を愛しなさい」というイエスの福音を思い出して、自己嫌悪に陥ることもあるのです。このように私たちは弱さを持ちながら、しかし、福音に生かされている事を自覚しなければならないのです。
 6節は貧しい者に対する差別を避けるように勧め、7節はもう一度、偽りの証言に触れています。ここで大切な事は、神に裁きを委ねるという事ではないでしょうか。
 8節は賄賂を避ける事に触れていますが、この賄賂とは金銭的なことに留まらず、自己保身に対する戒めにもなっているのです。
 9節は寄留者に対する態度を語っていますが、私たちの周りでも、外国人の犯罪が増えている事を理由に入国の際、顔写真や指紋を取る事が平然と行われています。しかし、外国人が増えているという現実の背景には、構造的な矛盾がある事を忘れてはいけないと思います。古くは戦争中に朝鮮半島から強制的に連れて来られた人々が大勢いて、その人たちやその子孫が今でも在日として生きているのが事実です。
 また、3Kと呼ばれる職場に外国人を呼んできた企業の責任を曖昧にしてはいけないし、難民と呼ばれる人たちを受け入れない国が先進国だなどとは言えないのではないでしょうか。
 聖書はイスラエルも寄留者だった事を忘れないように戒めています。「恩を仇で返す」ような事は、あってはならないのです。
【神の正義】
 これらの具体的な戒めを見る時、私たちの常識や独善的なモラルでは納得できない事も含まれています。しかし、そこには神の絶対的な主権がある事を忘れてはいけません。
 一つの共同体や組織を作っていくときには、規律やルールが必要です。そして、その規律やルールは共通の正義によって支えられなければならないのです。ここで語られる正義は、社会正義ですが、その背景にある思想は、神の正義なのです。
 正義という言葉ほど曖昧なものはありません。特にここで語られているように「争い」の中にあるとき、一方の正義は、他方においては不義になるのが当たり前なのです。
 もう18年前、2006年の事ですが、ある集会でパレスチナのガザにあるキリスト教系の団体が運営しているアル・アハリ病院の事を聞きました。その病院は地域にあって素晴らしい働きをしていて、まるでオアシスのように人々の癒しの場となっていたそうです。そして、その活動状況を支援者たちに報告していたそうですが、根本的な問題には全く触れていないそうなのです。根本的な問題とは、イスラエルが反政府勢力を攻撃していると言いながら、一般市民が巻き添えを食って、大きな被害を受けているという事実です。
 この事実は18年経った今でも続いているというか、より過激になってしまい、反政府勢力の一つであるハマスを攻撃することが、イスラエルの正義となっています。しかし、ガザを爆撃する事とハマスを攻撃する事は、別の事柄なのです。経済封鎖をしたり、壁を作ったりしたところで、反政府勢力の封じ込めには、たいして効果はないようです。
 このように人間の作り出す正義というものは、時代や制度によって変わってしまう事があります。しかし、神の正義は時代や制度が変わったとしても、変わらないのです。
 聖書が語る神の正義とは何でしょうか。それを実行されたのがイエス・キリストだと聖書は証言しています。イザヤ53章にはこのように書かれています。
「見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。
 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから
 彼は苦しんでいるのだ、と。
 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。
 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

 この預言の言葉が示している苦難の僕の姿こそが、神の正義を表す一つの形なのです。そして、この預言の言葉が示しているイエスとイエスの語る福音こそが真理として在り続けるのです。

祈 り
讃 美   新生367 神によりて
献 金
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏