前 奏
招 詞   ヘブライ人への手紙13章14~15節
讃 美   新生  2 来れ全能の主
開会の祈り
讃 美   新生216 栄えの冠を
主の祈り
讃 美   新生227 カルバリの丘へと
聖 書   出エジプト記32章1~5節
                    (新共同訳聖書 旧約P147)
宣 教   「心変わり」    宣教者:富田愛世牧師
【心変わり】
 私たちの考え方の中には、いつも既成概念というものがあります。肯定的にみるならば、この考え方によって事前に危険回避をすることができるし、効率的に物事を進めていくことができます。しかし、否定的にみるならば、この考え方によって別の角度から見るという視点を失ってしまったり、何故という探究心を失ってしまったりすることもあります。
 今日のメッセージのタイトルは「心変わり」としましたが、心変わりという言葉に対しても、一般的なイメージは否定的なものが多いような気がします。実際に言葉の意味を調べてみると二つの意味があり、1、愛情・忠誠心・好みなどが、他の人や物に移ること。変心。2、心が常と違うようになること。乱心。 となっていました。
 愛情や忠誠心について言えば、心変わりして、別の人を愛するようになったり、別の組織に従うようになるよりも、終始一貫して同じ人を愛したり、同じ組織に忠誠心を持つ事の方が正しいあり方だと思える事がたくさんあります。
 この背景には変化を好まないという日本人の国民性が関係しているのかもしれません。しかし、そう言いながらも、例えば戦国時代に天下統一をした織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の中で誰に一番魅力を感じるか?というアンケートをとると、織田信長の人気が一番高いというのは、とても不思議な気がするのです。
 魅力を感じるのは織田信長かもしれないが、現実的には、自分で変えるのではなく、他の誰かが変えてくれて、そこに乗っかる徳川家康が賢いのではないかと見て、そこに安心感を覚える人が多いようで、それが現実なのです。
 ある意味、矛盾しているようにも感じますが、世の中すべてが白黒付けられるものではなく、この点に関しては、こちらの立場、別の点に関しては、別の立場というように臨機応変に対応することが求められているように感じます。
 有名なアメリカの神学者でラインホルト・ニーバーという人は
「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我等に与え給え。変えることのできないものについては、それを受け容れるだけの落ちつきを与え給え。そして変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける智恵を授けたまえ」。
という有名な言葉を残し、日本でも多くの著名人がこの言葉を座右の銘にしています。
 変えることのできる事柄と、変えてはいけない事柄があり、しなければならない事が、どちらなのかという決断の難しさを物語っているわけです。そして、その決断の基準を多くの人は求めているのです。
【心変わりする民と心変わりする神】
 今日の聖書箇所は、とても興味深い二つの心変わりについて語っています。一般的にはイスラエルの民の心変わりによる罪に焦点が当てられますが、神もまた心変わりして、イスラエルを滅ぼすことを中止しているという点にも注意しなければならないと思うのです。
 20章でイスラエルの民は十戒を与えられ、24章3節で「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います。」と答えています。このイスラエルの民の答えは真剣なもので、本当にこの時は心の底から、このように答え、誓ったのだと思います。しかし、人間の決心の弱さというものを、この記事は語っているのです。
 この後、24章12節で神はモーセに対して、もう一度シナイ山に登りなさいと命じ、そこで教えと戒めを記した石の板を授けると語られるのです。そして、14節を見るとモーセは長老たちを集めて、自分が山に登っている間、ここに留まり、アロンとフルが民を導くようにと伝えているのです。
 15節を見るとモーセは再びシナイ山に登り、6日間は雲がシナイ山を覆った後、7日目に神からの語りかけがあり、40日に亘って神と語りました。25章から31章までに、その内容が記録されています。
 ところが、その間にイスラエルの民は不安になりアロンに対して目に見える神、すなわち偶像を作ってほしいと頼むのです。今日読んだ箇所がその場面です。民の申し出に対してアロンがどのように考えたのかは分かりませんが、すぐに民の要求に応えるため、人々から金のイヤリングを集め、それで金の雄牛の像を作るのです。
 この金のイヤリングというのは、イスラエルがエジプトを脱出する時にエジプト人から受け取った品物でした。つまり、主なる神が救い出してくださったという事のステータスシンボルだったのです。それを偶像にしてしまったという事ですから、完全な背信行為、心変わりだという事を表しているのです。
 これを知った神は怒りをあらわにし、モーセに対して「この民を滅ぼし尽し、あなたを大いなる民とする」と告げるのです。この言葉も実は魅力的と言うか、誘惑に満ちた言葉だと思うのです。
 頑固で言う事を聞かないイスラエルの民は自らの過ちによって滅びるのだから仕方ない。しかし、あなた、モーセは私に従っているのだから、あなたを大いなる民としようと語っているわけです。もし、モーセが自己保身に走ったならば、この後の執り成しはしなかったかもしれません。
 しかし、モーセは民のために執り成しをするのです。内容としては、民を執り成すというより、ここでイスラエルの民を滅ぼすならば、神ご自身の道理が通らなくなり、神の名声が傷つけられ、神の約束が台無しになってしまうという論理展開で、神を納得させようとするのです。さすがに神はモーセの必死さ、熱意に心変わりされたのです。
【神の本音】
 初めに言ったように、私たちの中にある既成概念では、神は真実なお方だから、こうと決めた事は最後までやり通すというようなイメージを持っていますし、それは間違ったイメージではありません。しかし、神が一番嫌う事は、律法主義的に物事を見て、判断する事です。また、人間に説得されて考え方を変えるなどというような事があってはならないと考えているかもしれませんが、今日のテキストはその考え方が絶対ではないという事を教えているのです。
 私たちがイメージする神とは、どのようなお方でしょうか。ユダヤ教徒ならば、私たちが旧約聖書と呼んでいるヘブライ語聖書に書かれている神をイメージします。しかし、キリスト者と呼ばれる私たちは、イエス・キリストの中に神をイメージするはずです。そして、ヘブライ語聖書に書かれている神のイメージは、新約聖書という光に照らして読む事によって、初めて真実の姿を表すはずです。
 神は愛であり、この愛とは関係性です。イエスが神の子としてこの世に来られ、人との関係を通して、神の国について語られたのです。ですから、神は独裁者のような存在ではないはずです。自分で決めた事だけに固執して、人の思いを無視するお方ではないのです。いつも私たちの思いに心を向けてくださっているのです。
 その一番の証拠が、イエス・キリストなのです。フィリピの信徒への手紙2章6~7節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」と書かれています。
 また、ニーバーの言葉のように、神は変えても構わない事と変えてはならない事をわきまえておられるのです。変えても構わない事が、変えてはならない事に優先される事はありません。
 ここで語られている、変えてはならない事は、神の救いの業です。そして、変えても構わない事は神の裁きなのです。裁きを変えても構わないなどと言うと誤解を招くかもしれませんが、罪に対する裁きは、罪を悔い改める事によって救いに変わるという事です。
 何度も言うように、神とはどのようなお方なのでしょうか。私たちが信じる、聖書に書かれている神の本質は愛と赦しの中に表わされているはずです。この神の愛と赦しを私たちが自分の常識の範囲でイメージするならば、それは、本当に小さなものにしかなりません。しかし、神の愛と赦しは、私たちのイメージをはるかに超えた事柄なのです。
 赦されない者が赦されるという事実、それが神の愛と赦しなのです。そのためならば、神は泥をかぶる事をも厭わないのです。「モーセに説得されて、民を滅ぼすことを止めてしまった、情けない神」そう思われたとしても、構わないのです。
 「初めに決めた事を途中で変えてしまうような、優柔不断な神」そう言われる事も覚悟のうえで、人が滅びる事よりも、一人の命を大切にされるのが神なのです。
 神が心変わりしてくださったからこそ、今、私たちは生かされているのではないでしょうか。神の優柔不断、それは愛によって突き動かされた心の変化、心変わりなのです。

祈 り
讃 美   新生470 この世の楽しみ
献 金
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏