前 奏
招 詞   ヨハネによる福音書6章35節
讃 美   新生  2 来れ全能の主
開会の祈り
讃 美   新生229 十字架のもとは
主の祈り
讃 美   新生230 丘の上に立てる十字架
聖 書   出エジプト記40章34~38節
                       (新共同訳聖書 旧約P162)
宣 教   「主の栄光が満ちる時」    宣教者:富田愛世牧師
【出エジプト記の神】
 昨年の秋から「族長物語」として創世記から読み始め、出エジプト記へと読み進んできましたが、年度も変わるという事で今回が最後となります。そこで、もう一度、振り返りながら今日の聖書箇所に入っていきたいと考えています。
 まず基本の基本ですが、聖書は神を中心にして書かれています。そこでイメージする神とはどのような存在なのでしょうか。
 多くの人はヘブライ語聖書で語られる神は「裁きの神」「義の神」であるというようなイメージを持っておられると思います。確かにヘブライ語聖書の神は「義」を大切にし、その義に反する行為に対して「裁き」を行っています。しかし、そこから恐怖心を植え付けてしまうならば、それはカルトと呼ばれる宗教になってしまいます。
 イエスが語られた「福音」を信じるならば、そこで語られた福音は恐怖からの解放であり、神の愛だという事に気づくはずです。そのようなキリストの光に照らして出エジプト記を読む時、そこに登場する神は「愛と哀れみの神」として受け止める事ができるようになるのです。
 はじめイスラエルの民は奴隷としてエジプトでこき使われていました。一般的にはエジプト王の王宮や神殿、さらにはピラミッド建設のために重労働させられていたと思われています。そんな民の叫びに答えて、エジプトからの脱出を計画してくださったのが主なる神なのです。この計画には神の愛が溢れていると、私は感じるのです。
 さらに、神の計画は必要のない重労働から解放し、荒野の旅の中で幕屋建設という神にとっても益となり、イスラエルの民にとっても心の拠り所となる有益な労働へと変えられていくのです。ここには目的を持たずに虚しい労働をしていた者が、はっきりとした目的を持って労働する者へと変えられるという、人間にとって大切な尊厳が与えられたという現実が語られているのです。
 そして、幕屋建設にいたるまでに行われた様々な出来事を含めて、全体を通して語られる神の意図とは「主の御名が全地に告げ知らされる」ようになる事なのです。9章15~16節に「実際、今までにもわたしは手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打ち、地上から絶やすこともできたのだ。しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた」と語られています。
 これはイスラエルを去らせないファラオに対して、疫病の災いが降りかかった時に語られた言葉です。イスラエルが神の御名を告げ知らせるのは当然の事として、その敵対者であるエジプトのファラオが神の御名を告げ知らせる者へと変えられていくなどという事はすぐには信じられない事かも知れません。しかし、これが神の意図だったと聖書は語っているのです。
【エジプト脱出の大義】
 イスラエルの民はご承知の通り、エジプトでは奴隷でした。この現実は神の望まれた事ではありませんでした。ですから神は奴隷から解放されたのです。
 奴隷から解放されるという事はどういう事なのでしょうか。奴隷というのは自由を奪われた人を意味します。そこから解放されるのですから、自由になる、自由人になるという事なのです。
 わりと多くの人は自由という言葉に魅力を感じているのではないかと思いますが、中には自由になると何をしていいのか分からないという人もいるようで、一概に多くの人が望む事、魅力的な事とは言えないかもしれません。
 しかし、一般に考えられている自由と聖書が語る自由には、少し違いがあるのです。一般的には「自由奔放」という言葉があるように、自由と無秩序が混同されているように思います。
 一方、聖書が語る自由とは、本来の姿に戻ることなのです。人間が本来の姿に戻るというのは、どういう事なのでしょうか。創世記を見ると、そこには神が意図した、本来の人間の姿が描かれているのです。
 そこに描かれている人間とは、最初の人アダムとエバなのです。アダムとエバの仕事は何だったのでしょうか。それは神が創造されたものを見て「美しい」と感じ、神の偉大さを賛美する事でした。そして、一日の終わりには、神と語らい、神と交わる事が二人の仕事だったのです。つまり礼拝者として、そこにいる事だったのです。
【神の民の契約】
 人間の本来の姿は罪を犯す前のアダムとエバの姿でした。しかし聖書に書いてあるとおりアダムとエバは罪を犯してしまいました。罪を犯す事によって、神との関係が断絶してしまったのです。この関係を修復するため、神はイスラエルに一つの契約を与えてくださいました。それが「十戒」なのです。
 ここで何回も言うように十戒とは「・・・しなければならない」とか「・・・してはいけない」という禁止事項、宗教的な戒律や掟とは違うという事です。ただし、この解釈はバプテスト教会ならではの解釈かもしれません。教憲、教規と呼ばれるものを持っている教団では、自己保身的に、手放しで「十戒は戒律や掟ではない」とは言わないようです。もし、そんなことを言ったならば、自分たちの作っている規則が土台から崩れ去ってしまう可能性が強いわけですから、言い切れないようです。
 しかし、バプテスト教会は「聖書のみ」という聖書信仰に立っている訳ですから、人間が勝手に作った規則に縛られる必要がないので、十戒に対しても、ハッキリした態度をとることができるのです。
 十戒は「・・・しないであろう」という神と私たち人間との間にある信頼関係によって成り立っているのです。神が私たちを信頼してくださるという事は、何にも代えることのできない恵みではないでしょうか。もし「神の信頼に自分は答えることが出来る」とおっしゃる方がいるならば、その方にとっては恵みでも何でもないでしょう。
 しかし、私たちはこのような神の信頼に答えたいけれども、答え切れない現実を経験しているわけです。ですから、この神からの信頼というものは恵みとなり、十戒は恵みの戒めとなるのです。
【主の栄光が満ちる時】
 十戒という神との契約を恵みとして受け止める時、私たちは神との正しい関係に戻ることができるのです。この状態を霊的な健康と呼ぶ事ができます。霊的に健康であるならば、私たちは自然な流れで成長し、神が共にいてくださる事に気づかされるのです。
 そもそも神はいつでも私たちと共に居続けておられるのに、私たちがそれに気づかないでいるのです。有名な足跡という詩をご存知でしょうか。
「ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人の足跡が残されていた。
一つは私の足跡、もう一つは主の足跡であった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は、砂の上の足跡に目を留めた。そこには一つの足跡しかなかった。私の人生で一番辛く悲しい時だった。この事がいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。『主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛い時、一人の足跡しかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、私にはわかりません。』
主は、ささやかれた『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に、足跡が一つだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。』」
この詩の主人公のような状態を「主の栄光に満たされた」状態と呼ぶのではないでしょうか。
 ヘブライ語聖書の中にも具体的に主の栄光に満たされるという事を描いている箇所があります。歴代下5章13~14節にこうあります。
「ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、『主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである。」
 主を賛美し、礼拝する時、今日の聖書箇所でモーセが幕屋に入れなかったのと同じ事が起こり、主の栄光に満たされるのです。
 この礼拝は自己満足ではなく「主の御名が全地に告げ知らされる」ためになされなければならないことなのです。つまり、礼拝とはクリスチャンが献げるだけではなく、宣教の業なのです。
 この御業を神は信頼する者に任せられました。だから、私たちはその信頼に応えようとするのではないでしょうか。

祈 り
讃 美   新生366 神ともにいまして
献 金
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏