前 奏
招 詞   イザヤ書40章9節
讃 美   新生  4 来りて歌え
開会の祈り
讃 美   新生252 喜べ主を
主の祈り
讃 美   新生131 イエスのみことばは
聖 書   コリントの信徒への手紙一1章18節
                      (新共同訳聖書 新約P300)
宣 教   「十字架の力」    宣教者:富田愛世牧師
【怖いもの】
 今日から新年度になりました。礼拝メッセージをどうしようかと考えていたのですが、今年度は聖書教育に合わせた聖書箇所からメッセージを語りたいと思っています。ただ、そうすると水曜日と木曜日の祈り会で学ぶ箇所と同じになってしまうので、その週のうちに同じ箇所を何回も読むのはチョッとと思われる方もいると思います。
 ですから、水曜日と木曜日はタイトルにあるように「聖書の学び」という事を中心にして、日曜日の礼拝は、その聖書から語られる「メッセージ」を中心に語っていこうと考えています。
 今日の教会学校での聖書箇所はコリントの信徒への手紙一1章10節から18節になっていて、聖書教育のテーマは「イエスさまのもとでの『一致』」となっています。教会という共同体の一致がテーマになっていますが、祈り会ではテーマに引っ張られることなく、一節一節についての解釈をしました。そして、主日礼拝のテーマは「十字架の力」としました。
 このように視点を変えれば、同じ聖書箇所であったとしても内容的には違うものになると思いますので、ご理解いただければと思っています。
 さて、今日は「十字架の力」としましたが、30年ほど前に、ある教会の前を通った時、この聖書箇所からの説教タイトルとして「十字架は強い」というテーマが掲げられていました。個人的に非常に興味深かったので、どんな説教が語られるのか聞きたかったのですが、それは叶いませんでした。
 今日も最初「十字架は強い」にしようかと迷いました。しかし、強いという表現は誤解を招きやすいと思ったので、強いとも、弱いとも受け止められるように「十字架の力」にしました。
 ところで、皆さん、怖いものがありますか。それなりに歳を重ねていくと漠然とした形で何かが怖いとか思うことは少なくなっているのではないかと思います。しかし、小さな頃のことを思い出すならば、なにか得体のしれないものに恐怖を感じたりしたことはなかったでしょうか。そして、得体のしれないものとして、お化けとか幽霊などというものに対して恐れを抱くことがあったのではないかと思います。
 私が小学生のころ、教室の後ろに「学級文庫」というのがあって、クラスの誰でも自由に借りることのできる本がたくさん置いてありました。いわゆる児童文学と呼ばれるものや偉人伝のようなものが中心でしたが、中には「日本のお化け大全」などというような本もありました。
 そのような本を読みながら、友だちと「どのお化けが一番怖いかな」などと話していたことを思い出しますが、私はクリスチャンホームで育ったからなのか、どうしてなのかはよく分かりませんが、日本のお化けは怖くなかったのです。何となく、日本のお化けは、絶対にいないと信じていたのです。
 しかし、ヨーロッパのお化けは怖かったのです。なぜなのかと考えてみたのですが、一つの理由は、ヨーロッパには行ったことがないので、まったくの未知の世界だからではないかと思います。だから、もしかすると本当にいるかもしれないと思っていたのかも知れません。
 ヨーロッパのお化けというと何を思い浮かべますか。いろいろあると思いますが、西洋の三大お化けというと、フランケンシュタイン、狼男、そして、ドラキュラです。
 小学校の低学年の頃、私の家での仕事の一つが雨戸を閉めることでした。子どもだったので、家の中から閉めることが出来ず、外に回って閉めていました。夕方、薄暗くなってから外に出て、もし、フランケンシュタインやドラキュラが出てきたらどうしようかと考えていたことがあります。
 フランケンシュタインは動作が鈍いので逃げることが出来るから大丈夫。狼男は満月の夜しか出てこないので、満月の日は、外に出ないようにしました。しかし、ドラキュラについては、こうもりに化けてどこにでも現れるので、三大お化けの中で一番怖かったのです。
 ちょうど夕方になると、家の周りをたくさんのこうもりが飛んでいました。ですから、もしドラキュラが出てきたらどうしようと怖かったのですけれど、ドラキュラには弱点があるから大丈夫と、自分に言い聞かせていました。
 ドラキュラの弱点は3つあり、にんにく、光、十字架です。にんにくについては、なぜか分かりません。しかし、光といえば、聖書に出てくる言葉で「光の子として歩みなさい」とか「あなた方は世の光です」と書かれています。つまり、クリスチャンは大丈夫なのかもしれないと思っていました。そして、十字架は教会にある。だからクリスチャンは強い。十字架は強いと自分に言い聞かせていました。
【十字架の言葉】
 さて、今日の箇所は、十字架の言葉は、滅び行く者には愚かであると語ります。十字架の言葉とは何でしょうか?
 十字架の上で、イエスが語られた言葉でしょうか?もちろんそれも含まれますが、イエスの語られた言葉すべてをさしていると思います。つまり、聖書に書かれている「福音」そのもの、「福音」すべてが、十字架の言葉なのです。
 イエスはガリラヤの町や村を歩き、そこに住む人々と様々な会話を交わしました。その中には、様々な悩み、痛みを訴える人もいたでしょう。社会の生活の中で理不尽な目に遭っている人たちの話しも聞いたと思います。
 そして、助言を与えることもあったと思いますが、必ずしも答えを与えたのではなく、それらの言葉に共感し、一緒に悩み、涙したのではないでしょうか。
 病に苦しむ人に向かって「治りたいのか」と語り、その人にとって、一番必要なものが与えられるように促し、律法違反という罪を犯し、裁かれようとする人に対しては、この中に罪のない者がいるのなら、その人から石を投げ、その人を裁くようにと語られました。裁くことが大切なのではなく、罪を悔い改めることの大切さを教えられたのではないでしょうか。
 十字架の言葉というのは、私たちが当たり前のように、常識として持っている、愚かな正義感から来る「正義」に対して、本当にそうなのかと問いかける言葉なのです。また、正義と思い込んでいるけれど、本当は自己正当化や自己満足のために利用している正義に気付かせる言葉なのではないでしょうか。
 十字架の言葉は滅び行く者にとっては愚かなものなのです。聖書にはそう書いてあるかも知れないけれど、それは理想論であって、現実にはそぐわない。とか、素晴らしいことですね。でも、私には関係ないとおっしゃる方にとっては、確かに愚かな作り話、理想論でしかありません。しかし、救いに与る者にとっては神の力なのです。
【力を得るために】
 ここに私たちの一つの選択、決断があるのです。十字架の言葉を愚かなもの、自分には関係のないものとして滅びるか。それとも、十字架の言葉には真理がある、神の力なのだとして救いに与るか。
 いつも、この選択が私たちに迫っているのです。どちらを選ぶかという決断が私たちに求められているのです。そして、十字架の言葉を神の力として、受けいれる時、大きな希望が与えられるのです。
 このコリントの信徒への手紙を書いたパウロという人物は、イエスに出会う前、敬虔なユダヤ教徒として活動していました。血統的にも純粋なユダヤ人で、学びの面においても優秀な先生、ラビのもとで律法を学びました。律法に対する姿勢は熱心さのあまり、イエスをキリストと信じる人々を迫害するほどでした。
 しかし、熱心に律法を守り、昔からの慣習に従って、神の救いを得ようとすればするほど、むなしさや矛盾を覚えるようになったのだと思います。イスラエルを奴隷の家から解放してくださったのが神であるはずなのに、その神が定めた律法を厳守することによって人は不自由になっていく。そんな矛盾を感じていたのではないかと思うのです。
 そのような時に、復活のイエスに出会うわけです。サウロの前に現れたイエスは、サウロに対して「なぜ、わたしを迫害するのか」と問われました。しかし、その後に続く言葉は裁きの言葉ではありませんでした。
 イエスを信じる者たちを迫害し、これからもその働きをさらに強めようとしている矢先だったにも関わらず、サウロに対して裁きの言葉をかけるのではなく「わたしが選んだ器だ」と声をかけ用いようとされるのです。
 このような言葉をサウロは聞いたことがなかったのです。敵は憎むものであって、赦したり、愛したりする存在ではなかったのです。しかし、イエスは敵を赦し、敵を愛すると語られるのです。
 それが十字架の言葉なのです。神の力なのです。十字架の言葉、十字架の力は、私たちの常識を覆します。人間的には負の出来事を、勝利に変えてしまうのです。力にものを言わせるような勝利ではなく、愛による勝利が与えられるのです。

祈 り
讃 美   新生662 行きて伝えよ
主の晩餐  
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
祝 祷  
後 奏