前 奏
招 詞   イザヤ書61章3節
讃 美   新生  4 来りて歌え
開会の祈り
讃 美   新生378 海よりも深い主の愛
主の祈り
讃 美   新生376 友よ聞け主のことば
聖 書   コリントの信徒への手紙一3章6~9節
                       (新共同訳聖書 新約P302)
宣 教   「神秘体験」    宣教者:富田愛世牧師
【庭いじり】
 新年度が始まりましたが、具体的な実感がある方はどれくらいおられるでしょうか?学校や大きな会社などという組織の中にいれば、新入生や新入社員が入ってきたり、学年や働く部署が変わったりして、実感するのでしょうが、牧師をしていると、あまり実感がありません。
 もちろん、教会も新年度に入るので変化する事柄がありますが、学生の頃のような新鮮さはなくなってしまったように感じます。
 新年度というと、新しい出会いがあり、自己紹介などをする機会が多いのではないかと思います。そして、自己紹介をした時に出てくる質問の定番として「趣味は何ですか」というものがあります。
 皆さんは趣味をお持ちでしょうか?私はこれといった趣味がないので、いつも困ってしまいます。今から30年ほど前、北海道にいた頃、毎月「リバイバルプレイズナイト」という集会を行っていました。
 教派、教団を超えた賛美の集会でミクタムレコードというクリスチャンミュージックの会社を主催している小坂忠さんという方が毎月、札幌に来て集会のリードをしてくださっていました。
 ある時、小坂忠さんが「ところで愛世の趣味って何?」と聞かれました。これといった趣味がないので「庭いじりかな」と答えたところ、ずいぶん地味な趣味だなと言われチョットへこんだ覚えがあります。
 その頃は地味でしたが、20年ほど前から「庭いじり」ではなく「ガーデニング」と呼ばれるようになって、趣味にする人が急に増えホームセンター等に専門のコーナーが作られるようになりました。ガーデニングの中心的な作業の一つは植物を植えることで、将来的な景観を想像しながら、奥には何を植え、手前には何を植えと考えます。
 そして、毎年その生長を楽しみ、終わりなく、変化も楽しむというのがガーデニングの魅力ではないかと思います。
【生きるために】
 さて、このままガーデニングの話しで終わってしまってはいけませんので、今日の聖書の箇所をもう一度読んでみたいと思います。6節を見ると「わたしは植え、アポロは水を注いだ」と書かれています。
 パウロはガーデニングを楽しんではいませんでしたが、イエスが身近なものをたとえ話に用いられたように、身近な出来事として農作物の生長に一つの真理が隠されているということを語っています。
 パウロはここで「わたしは蒔き」とは語らず「わたしは植え」と語っています。つまり、種を蒔くという最初の部分は省いているのです。そうすると花のような鑑賞するものをイメージしているのではないと思うのです。苗を植えているという事は農作物ではないかと思うのです。
 そして、パレスチナ地方の農作物を考えると、麦やオリーブやブドウというのが頭に浮かぶのではないでしょうか。この3つのうち、麦は種を蒔いて育てるものなので違うでしょう。残るのはオリーブとブドウですが、これはどちらでもいいのかなと思います。ただ、イスラエルにおいてブドウ畑という表現は特別なもので、厳格なユダヤ教徒であったパウロですから、ブドウの生長という事を念頭において語ったのではないかと思います。
 当時の状況を考えるならば、その日を生きるということは当然のことではなかったと思います。生きるために、食べるために、農作物を育てる必要があったのです。パウロにとって教会の働きというのは、生きることと同じくらい大切なものだったのではないでしょうか。
【チームワーク】
 それでは、少し強引かも知れませんが、ブドウを育てるという事を当てはめて、続きを読んでいこうと思いますが、ブドウ畑を作るためには、ブドウの苗を植える人が必要です。しかし、植えただけでは実りはありません。
 水を注ぐ人、つまり、世話をする人が必要なのです。植えるだけでは育ちませんが、世話をする人も、何も植わっていない所に水をまいても何も実りません。苗があるから世話ができる。
 この働きは「どちらが大切」ではなく「どちらも大切」なチームワークなのです。そして、ブドウ畑であるという事にも特別な意味があるのです。なぜならイエスはブドウ畑に関係するたとえ話をされているからです。
 ヨハネによる福音書15章には「わたしはまことのぶどうの木」という出だしで始まるイエスの言葉が記録されています。イエスはご自身をブドウの木にたとえ、わたしに繋がっていなければ、あなたがたは良い実を結ぶことが出来ないと語りました。
 ここには直接「チームワーク」という言葉は出てきませんが、関係性という事が大きなテーマになっています。イエスと私の関係が正しく繋がっていれば良い実を結ぶことができるというのです。チームワークを作る前の段階として、人との関係性、そして、イエスとの関係性を正しく築いていくことの重要性が言葉の裏に隠されているのではないでしょうか。
 また、イスラエルの民は聖書の中でブドウ畑にたとえられています。そして、畑の収穫という事についていえば、レビ記19章9~10節にこのようなことが書かれています。
「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」
 これも直接「チームワーク」について書かれているのではありませんが、イスラエルの民と貧しい者や寄留者との関係が書かれているのです。ここで神は、収穫物は神からの恵みなのだから、ひとり占めするのではなく、分け合いなさいと命じているのです。
【神秘体験】
 ブドウ畑というところから、いろいろと飛びましたが、今日のタイトルは「神秘体験」としました。今までの話しの中で、何が神秘体験なのだろうかと思っておられると思います。
 しかし、最初の所に話を戻すならば、苗を植え、世話をすれば実りを得ることができるのでしょうか。実を実らせる苗もあれば、枯れてしまう苗もあります。そして、苗を植える時には、どの苗が実を実らせるのかは誰にも分かりません。
 神秘体験というと、何か特別な、それこそ霊的な体験を思い浮かべるかもしれません。確かに一般的には、得体の知れない何か不思議な、そして、宗教的な体験だと考えられていますが、それだけではないと思います。
 人間にはどうしようもないこと、その働きこそが「神」の働きなのです。そして、植物の苗が生長し実を結ぶという、ある意味、身近な事柄も人間が自由にすることのできないものなのです。大きな括りでは神秘体験だと思うのです。
 そして、ヘブライ語聖書に出てくる収穫についての考え方も、現代人の発想をはるかに超えたもので、神秘的な思考という事ができるのではないでしょうか。ヘブライ語聖書では、それだけにとどまらず、申命記23章35節を見るとこう書かれています。
「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。」
 どういう意味なのでしょうか。畑の収穫は神からの恵みなのです。だから、分かち合うという事が基本なのです。しかし、そういうと「働かざる者、食うべからず」などと反論する方がいると思います。その通りかもしれません。しかし、現実の社会には、働きたくても働けない人もいるわけで、そのような人に対して「働かざる者、食うべからず」と言えるのでしょうか。
 非常に難しい問いかけだと思います。これが答えですというものは、きっとないと思います。しかし、だからこそ、それを実践することが出来たとするなら、それは神秘体験、神の働きなのではないでしょうか。
 そして、神はその働きに人の力を巻き込んで行われるのです。私たちの身の回りにある様々な出来事を注意深く見ていくなら、必ずそこに神の働きを見出すことができるのです。

祈 り
讃 美   新生623 時は満ちて
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
祝 祷  
後 奏