前 奏
招 詞   サムエル記上21章7節
讃 美   新生  4 来りて歌え
開会の祈り
讃 美   新生300 罪ゆるされしこの身をば
主の祈り
讃 美   新生134 生命のみことば たえにくすし
聖 書   コリントの信徒への手紙一8章7~13節
                      (新共同訳聖書 新約P309)
宣 教   「大きな心で」    宣教者:富田愛世牧師
【刷り込まれた価値観】
 私たちの中には、幼少期から思春期くらいまでの間に刷り込まれた「価値観」というものがあると思います。
 今日の聖書箇所を読む中で「弱い人とか強い人」という言葉が何回も出て来て、それが印象に残りました。前々回も「十字架の力は滅ぶ者には愚かなものですが、救われる者には力です」というような言葉が語られていました。
 そのような言葉から、パウロの中には能力主義的な面が残っているのではないかと思わされたのです。しかし、それは当然の事かも知れません。元々ユダヤ教徒であり、律法主義者だったわけです。ですから、そのような一面が時々出てくるけれど、その度にイエスの福音を思い出して「そうではない」と否定し、自分を律していたのではないかと思うのです。
 私にも同じような面があります。牧師の家庭で育ち、厳格な父に育てられました。日曜日は聖日だから礼拝に集中しなければならない。まさしく律法主義的な信仰生活をおくっていました。
 ですから、マニュアルが大好き、決め事が大好きでした。何故なら、律法主義的に何かを守っていれば楽だったからです。しかし、小さい男と思われたくないから、こだわりを少しずつ捨てていきました。
 この小さい男と思われたくないというのも、一つの刷り込みだと思うのです。男とはこういうものだという刷り込みがあり、その中で自分が憧れる「男像」というものがあったのです。
 ただ、こだわりを捨てていくうちに聖書の読み方も変えられていったように思うのです。それまでの聖書は教科書のようなもので、ああしろ、こうしろという規則でした。そう思いながらも「聖書は神さまからのラブレターです」など決まり文句を言っていました。しかし、こだわりを捨て、聖書を読んでいくうちに心が自由にされて、本当の意味が、少しずつ分かるようになってきました。
【弱い人】
 さて、7節を読むと「良心が弱いために汚される」9節には「弱い人々を罪に誘う」11節には「弱い人」という言葉が出てきます。パウロはコリント教会の中に弱い人と強い人がいると認識していたようです。
 ここで語られる「弱い人」とはどのような人だったのでしょうか。もちろん、ここで語られる「弱い」とか「強い」という表現には様々な見解があるので、弱い人という表現が適正なのかという問題がありますが、それについては、今日は触れずに、ここではどういう人を指しているのかという事を見ていきたいと思います。
 ここで語られる弱い人とは、偶像に供えられた肉を食べることのできない人、別の言い方をするならば、真面目で厳格なクリスチャンだと思うのです。
 この背景には、当時の食糧供給事情というものあるので、まずはそれを理解しなければなりません。
 動物のいけにえを供える習慣のある宗教では、その動物を焼き尽くしてしまうこともありましたが、焼き尽くさずに残ったものを食べることもありました。ユダヤ教でもそのようにしていました。そして、その残った肉は祭司が食べていたわけですが、それでも残ってしまうことがありました。そのような肉は市場に払い下げて売っていたようなのです。
 一般の人々は、そのように払い下げられた肉を飼って食べていたのです。コリントの町でも同じことが行われていました。しかし、コリントで新しくクリスチャンになった人々は、異教の神々にいけにえとして供えられた肉は汚れているのではないかと思っていたのです。
 そして、真面目に信仰する人々には受け入れることのできない行為だったのです。つまり、信仰を生活の中に取り入れた人々、信仰を生きている人々には受け入れられない行為だったという事なのです。それが、ここで語られる「弱い人」なのです。
【強い人】
 それに対して「強い人」とはどのような人だったのでしょうか。これには2種類の人がいるように思います。
 一つ目は、信仰と実生活は別だと考える人たちです。信仰の問題としては、異教の神にいけにえとして供えられた肉ですから、それは汚れたものだと考えていました。けれども生活するうえで、そんなことを考えていては生きていけないと割り切ることのできる人々がいたのではないかと思います。
 そして、もう一つの人々というのは、今日の聖書に出てくるような人々で、「知識」を持った人々ではないかと思うのです。その知識というのは、キリスト信仰の基本的な信仰姿勢を指しています。
 そもそも偶像の神を信じることはナンセンスなことだというのです。なぜなら、偶像というのは人間が作り出したものにすぎません。ですから、それが神であるはずがないというのです。
 そのような神でも、何でもないものに、いけにえとして供えられたからと言って、それ自体が汚れるはずがないとするのです。信仰上の問題は生じるかもしれませんが、偶像の神に供え物の肉を汚すことのできる力など、初めからないと断じているのです。
 だから、そのような肉を食べることには何の問題もないとしていたのです。そして、そのような人を「強い人」と呼んでいるのです。
【大きな心で】
 今日のタイトルは「大きな心で」としましたが、何を基準にして、心が大きいとか小さいというのでしょうか。また、パウロはここで弱い人と強い人と呼んでいますが、自分をどちらにおいて語っているのでしょうか。
 復活のイエスに出会う前のパウロは、自分を「強い」と自認していたと思います。しかし、そのような自分が実は弱かったという事に気付かされたのではないでしょうか。
 「弱い」という事は、何か縛られていた、不自由だったという事なのです。そして、コリントの教会に起こっている問題の根本的な原因がそこにあると考えていたのではないでしょうか。
 「弱い人」についても、そのままで良いのだろうか。そのままではいけないのではないか、不自由なままでいるよりは、自由になることの方がよいのではないか。そんなことを思いめぐらしながら、一つの結論にたどり着いたのではないかと思うのです。
 ただ、「弱い人」というのは強い人によって傷付けられているわけですから、その傷に塩を塗るようなことはしてはいけないのです。ですから強い人が変えられなければならないと考えていたのです。
 そのためにはどうしたらよいのか。パウロは「弱い人」をつまずかせないために、今後、肉を食べないという決断をしました。この決断は愛に根差した配慮なのです。
 その人が傷つくことのないために、私に出来ることは何かと考える時に大切にしなければならないことは、当然の事ですが、相手に対する配慮です。それは愛に根差したものでなければなりません。
 義務感とか「しょうがない」という妥協的な思いから配慮したとするならば、二次被害、三次被害というものが起こってしまう可能性が非常に高いのです。ですから、私たちはイエスの前に、神の前に、愛を与えてくださいと願い求めることが必要なのではないでしょうか。

祈 り
讃 美   新生661 聞け主のみ声を
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
祝 祷  
後 奏