前 奏
招 詞   詩編96編1~2節
讃 美   新生  4 来りて歌え
開会の祈り
讃 美   新生 42 朝の光の中で
主の祈り
讃 美   新生660 力と光と恵みの神
聖 書   コリントの信徒への手紙一9章19~23節
                        (新共同訳聖書 新約P311)
宣 教   「どんなことでもする」    宣教者:富田愛世牧師
【目的】
 今日は「どんなことでもする」というタイトルで聖書から聞いていこうと思うのですが、「どんなことでもする」という言葉だけを聞くと、様々な誤解を招く恐れがあるだろうと思うのです。
 「金儲けのためには、何でもする」というようなセリフをドラマなどで耳にしますが、これは「どんなことでもする」という時の、悪い例だと思います。反対に中島みゆきさんという歌手の「空と君のあいだには」という歌の歌詞は究極的な決断を歌っています。
 この歌は「同情するなら金をくれ」というセリフで有名な「家なき子」というドラマの主題歌です。このドラマで主人公が犬を飼っていて、その犬の目線で書かれた歌詞だという事です。
 歌詞の内容としては、「君が涙のときには 僕はポプラの枝になる」と始まります。主人公には理不尽な状況がふりかかり、その度に傷つき、涙するわけです。そんな時にも僕はそばにいて、君を見守っているよと続いていくのです。そして、この歌のサビの部分が「空と君とのあいだには、今日も冷たい雨が降る。君が笑ってくれるなら、僕は悪にでもなる」となっているのです。
 君が悲しんだ顔をしていると、いつも冷たい雨が降ります。心と体が冷たくなった君。そんな君が笑ってくれるなら、君のために僕はどんなことでもする、と決意しています。このどんなこととは「悪」にでもなるという究極の決断なのです。
 パウロが「福音のために、わたしはどんな事でもする。」と語る背景にはイエスの十字架があったと思います。そして、イエスの十字架はこの歌の歌詞にあるように「悪にでもなる」という事ではないでしょうか。
 私たちは十字架を美化してしまうことがあります。しかし、イエスの十字架は犯罪者に対する刑罰でした。つまり、イエスは罪を犯してはいないけれど、イエスの十字架を見た当時の人々は、イエスが犯罪人だと認識したはずです。
 という事は、イエスは人々の魂の救済のため「悪」になったという事です。イエスの十字架はパウロにとって「悪」にでもなるという大きな出来事だったのです。
【それぞれの人】
 パウロは「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである」という明確な目的のもとに「すべての人に対して自由であるが、奴隷になった」と語ります。目的を達成するための決断なのです。
 また、パウロはここで「すべての人に対して自由であるが」と語りますが、私たちが「すべて」とか「誰でも」という言葉を用いる時、対象を曖昧にしてしまうことがあります。学校でも、事業所でも、そして、教会でも「すべての人」とか「誰でも」という時、具体的な相手、対象を見ているでしょうか。これは私たちに対する一つの問いかけとして受け止める必要があります。
 具体的な相手、対象を見るならば、準備の仕方から対応方法まで、変わるはずです。教会を例にあげるなら、「誰でもどうぞ」と言いながら、目の不自由な方のための環境を整えているでしょうか。耳の不自由な方のために手話通訳や文字起こしができているでしょうか。日本語の分からない方のために、同時通訳の準備ができているでしょうか。
 今、このようなことをしなければならないと言うのではありません。出来ることと、出来ないことがあるのです。そして、その中から「今はこの点に力を注ごう」という優先順位があるのです。
 このような具体的な相手、対象を見ていないことによって、結果的には誰も受け入れていないという事が起こってしまうのです。
 パウロがここで語る「すべての人」とは、抽象的な言葉ではなく、自分の周りにいる具体的な人々につながっているのです。それはコリントという特定の町の人々です。その中にはユダヤ人がいて、律法に支配されている人がいて、律法を持たない人がいて、弱い人がいるのです。
 ユダヤ人と律法に支配されている人というのは、ほとんど同じ人を指していると思うのですが、わざわざ、分けて書いているという事は、異邦人であっても律法を守ろうとしている人なのか、または、ユダヤ教の律法ではなく、概念として、その人が持っている律法的なことを指しているのかもしれません。
 律法を持たない人とは、ユダヤ人の考えからすると、異邦人を指しています。そして、弱い人とは、8章で話題となったように偶像に供えた肉を食べることのできない人を指していると考えることもできますが、それだけではなく、当時の社会制度を考えるならば、女性や子ども、そして、奴隷などの弱い立場にある人を指していると考えられます。
【共に】
 22節の後半でパウロは「すべての人に対してすべてのものになりました。」と語ります。すべての人が救われるためには、自分の主義主張を捨てることもできるというのです。パウロが柔軟な姿勢で、それぞれの人たちのようになるのは「共に福音にあずかるため」なのです。
 ここに出てくる「共に」という言葉がとても重要な意味を持っていると思うのです。それは「上から目線ではない」という事です。残念なことですが、教会に来て傷ついたという人の話を聞いたことがあります。それは「あなたはまだ救われていないのですか」と尋ねられて傷ついたという事でした。
 救われるという事はとても大切なことですが、不用意にこの言葉を使う時、相手に対して「あなたはまだ」という意識、つまり、救われていない可哀そうな状態にあるとか、罪の中にいるという不完全な状態だと決めつけられているように受け止められるというのです。
 「共に」という言葉によって、そのような「上から目線」ではないという事を現わしているのです。しかし「共に」という事を誤解してはいけません。なぜなら「共に」という言葉を用いて、自分の価値観や常識に当てはめようとする事があるからです。
 その発想の根っこには、優越感というものが見え隠れしているのです。当時のユダヤ人クリスチャンは異邦人に対して「自分たちのようになる事」を求めましたが、それはユダヤ人の持つ優越意識からの発想だったのです。
 優越感から派生するものとして、独占欲とか支配欲というものがあります。そういうものは潜在的に人間が持っているものかもしれませんが、イエスはそれらを罪の果実だと捉えていました。イエスの語った福音は、上に立ちたい者、つまり支配欲に囚われる時、その人は仕える者になりなさいと語ります。
 パウロはイエスの語られた福音を最優先して語るのです。そして、すべての人が罪から解放される事を目的としているのです。罪からの解放というと、何となく抽象的になってしまいますが、その一つの具体が優越意識からの自由なのです。
 しょせん、人間は絶対的な存在ではありませんから、誰かと比較して、一時的に優越感に浸ったとしても、それを維持するためには、無駄な努力をし続けなければなりません。そのような無意味な事からの解放をパウロは語るのです。
【自分に厳しく】
 コリントにある教会という共同体の中で、当時の少数者であるクリスチャンは共に生きなければならない現実がありました。共に生きる時に心がけておくとよい事の一つに「人に優しく、自分に厳しく」という言葉があります。
 わかってはいるものの、なかなか出来ることではありません。中途半端に自分に厳しい人に限って、他人に対して優しくなる事ができないのが現実です。「自分はこれだけ頑張っているのだから、あの人ももっと頑張るべきだ」とか「あまい」という言葉で人を切り捨ててしまうのです。
 しかし、ここでパウロが語るのは、修行とか精進のように、自分で自分を律する事ではありません。福音のためにどんな事でもするならば、節制する事も出来るでしょうと言う事なのです。
 そして、ここでも目的を明確にしなければならない理由が出てきます。時々人は目的のために行動しているにも関わらず、その行動自体が目的化してしまうことがあります。つまり、目的を見失って、やっている事に酔いしれて、それが目的とすり替わってしまうのです。
 そうなると本末転倒です。明確な目的、ここでは「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである」という事を、私たちも心の中心に据えて、一つ一つの行動を検証し、見直していく事ができるなら、私たちの生涯は、神に喜ばれるものとなるのです。

祈 り
讃 美   新生632 福音のために
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
祝 祷  
後 奏