聖書 ローマ 6:22~23   宣教題 新しい命に生きる   説教者 中田義直

先週の執事選挙総会の中で、教会の墓地についての話し合いをいたしました。墓石のデザインは三つの候補の中から一つが選ばれましたが、墓石に記す「言葉」については四つの案から一つに絞ることができませんでした。三つの案が拮抗し、それぞれの言葉に対する思いが語られました。私たちの希望であり、キリスト教信仰にとって重要な「復活」、墓参に来る方に伝えたいという伝道の思いを込めて「神は愛」、また、神と共にある平安を願う言葉として「憩いのみぎわ」と、それぞれをどの言葉が良いかという理由が語られました。墓地の方と話を進めながら、ふさわしい言葉を3月の総会で選ぼうということになりました。

教会墓地のことを話し合いながら、永遠の命を信じているということの恵み、そして、復活という希望があることの素晴らしさを改めて感じました。パウロはコリント第一の手紙13章に「13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と記しています。いつまでも残るもの、それは、死によっても奪い去れることのないものといえるでしょう。ルカ福音書12章に「愚かな金持ちのたとえ」と言われるイエス様の譬え話が記されています。

「12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

この譬え話にあるように、どんなにこの世に宝を蓄えても、この世を旅立つときに私たちはそれを持ってゆくことができません。しかし、信仰と希望と愛は、生と死を超えて神様と私たちを結び付け、私と隣人とを結び付けてゆくのです。だからこそ、私たちはたとえ死によって分かたれたとしても再会の希望を持って生きることができるのです。またパウロは、ローマの手紙に「6:22 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。6:23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」と記しています。ここでパウロは、私たちにとって死は人生の終わりではないということを示しています。私たちの人生の行き着くところ、それは死でも墓場でもありません。私たちの行き着くところ、それは「永遠の命」だとパウロは語ります。

そして、この永遠の命は「神の賜物」つまり、神様からのプレゼントだとパウロはいいます。私たちが努力して得るのでも、修行を積み、悟りを開いて得るのでもありません。神様からの一方的な恵み、一方的な愛によって私たちは永遠の命をいただいたのです。だからこそ、私たちは教会の信仰告白でも告白しているように、「終末の主によって、信じる者は新しい命を与えられ、救いの完成にあずかる」のです。私たちの行き着くところは、キリストの十字架化と復活によって与えられる勝利、永遠の命です。そして、私たちはこの希望をもって、与えられている今を歩んでいくのです。

 

-祈り-

主なる神様、あなたの導きの中でここに呼び集められ、共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

主よ、あなたはイエス・キリストを通して、私たちを罪から贖いだしご自分のものとしてくださいました。私たちは罪に支配されて罪の奴隷ではなく、キリストの死によって神様に贖われた者です。そして、私たちはあなたから永遠の命をいただきました。新しい命に生きる者として、いつまでも存続する信仰と希望と愛を何よりも大切にして生きることができますよう、聖霊の導きをお与えください。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

ー聖書ー

ローマの信徒への手紙 6章22節~23節

6:22 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。

6:23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。