聖書 マタイ 13:10~17 宣教題 心が鈍るとき 説教者 中田義直
教会の暦では、私たちは今、受難節の時を歩んでいます。イエス・キリストは十字架で殺されるという大きな苦難を背負われました。そして、それは私たちの罪を贖うため、神様と人との良き関係を取り戻すためでした。神の前に罪人であり、自分の力では神の民となることのできない私たちを神の民とするためにイエス様は苦難を背負ってくださいました。
私たちクリスチャンが、イエス様を預言した言葉と信じていますイザヤ書53章にはこのようにあります。「53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
私たちイエス・キリストを救い主として信じる者、イエス様の苦難を通して、神様の愛のうちにあることを知らされた者にとって、このイザヤの言葉はほかの誰でもないイエス・キリストを指し示す言葉としか受け止めることはできません。私たちはイエス様によって平和が与えられ、癒しが与えられているからです。
福音書を記したマタイは、イエス様こそ聖書に予言されていた救い主であること、つまり、預言者たちの言葉の成就としてイエス様が世に来られたということをはっきりと示そうという願いをもって福音書を記しました。そして、イエス様の生涯で起こった様々な出来事が聖書の言葉の成就であるということを示しているのです。その一つが今日の聖書の個所です。ここで弟子たちはイエス様に「なぜ人々に喩えを用いて話すのですか」と問うています。この問いの背景には「なぜもっとわかりやすくストレートにお話にならないのか」という弟子たちのイエス様に対する疑問があったのではないでしょうか。この時イエス様の話を聞いた群衆たちの多くはイエス様をあがめている人たちでした。ですから、このように人たちにストレートに教えを伝えていくのが良いのではないか、という弟子たちの思いがあったことでしょう。
この時、多くの人々がイエス様を支持していた一方、ユダヤ教の指導者たちやファリサイ派の人々はイエス様との論争に勝つことができないという苛立ちや、イエス様の言動やその影響力が彼らがユダヤ社会の中で築いてきた宗教的な秩序を破壊する危険な存在という理解からイエス様のことを殺そうという相談が始まっていたのです。このような状況を弟子たちも気づいていたのでしょう。多くの人々を仲間とすること、数の力を得ることが大切と思えていたのではないでしょうか。ところが、イエス様は「「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。13:12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。13:13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」とお答えになりました。「あの人たちには許されていない」「持っていないものは持っているものまでも取り上げられる」という言葉はとてもきつい響きで、なんとも受け入れることが難しいように思えてまりません。「持っていない人に与えることこそ、神様の御心ではないだろうか」とイエス様に反論したくなうような言葉です。しかし、イエス様はその理由を示されました。それは、イザヤの予言が実現するためだとイエス様は語られるのです。
予言が成就するために、イエス様から突き放される人がいるというのはどうも納得しがたいことに思えます。私もこの箇所を読むとそのように思ってしまいます。しかし、ここで忘れてならないことは、イエス様は今この時現実となっているイザヤの予言を覆すために世に来られたということです。「この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない」と神様はイザヤに予言の言葉を託しました。しかし、「私は彼らをいやさない」というご自身の言葉を超えて、心で理解せず、悔い改めない民をご自分の民、神の子とするために神様はイエス様を世にお遣わし下さったのです。
心で理解しない、それは、神様が理解するのを阻止しているのではありません。私たちの心が鈍っているからこそ、私たちは心で理解することができないのです。イザヤ書53章の苦難の僕の予言にあるように、私たちは本当の救い主の姿を受け止めることができなかったのです。輝かしい姿、威風堂々とした凱旋将軍のような救い主を私たちは求めているからです。それは、群衆たちだけでなく弟子たちも同様でした。しかし、イエス様は復活されたときまず弟子たちのその姿を現されました。弟子たちは「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されている」のです。そして彼らは「悟ることの許されていなかった」人たちのもとへ福音を伝えるために遣わされていくのです。
私たちはこの世の富や誉を求める思いを持っています。そして、そのようなこの世で光り輝くものが私たちの心を鈍らせてしまうのです。しかし、私たちの心が本当に大切なものに気づくことができるようにと、イエス様は私たちに助け主なる聖霊をお送ると約束してくださいました。預言者や正しい人たちが切に求めても見ることのできなかった「救い主」を私たちは聖霊の助けにより信じています。肉の目には見えないけれども、私たちは確かにイエス・キリストと出会い、私の救い主として信じる信仰へと導かれたのです。
ー祈り-
主なる神様、あなたに呼び集められ、共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。
主よ、私たちはこの世の富や誉れに心を奪われます。自分の欲に心が支配されてしまうことがあります。本当に私たちは「心で理解せず、悔い改めない」罪人です。あなたの義の前に、許されることも癒やされることもない罪ある者です。しかし、そのような私たちを救い、癒すためにイエス様は世に来てくださいました。そして、死をもって私たちを贖ってくださり、神の民としてくださいました。あなたの深い愛に感謝いたします。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」このイエス様の言葉を信じて、この新しい週を歩むことができますよう、聖霊の助けをお与えください。
この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン
ー聖書ー
マタイ福音書13:10~17
13:10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。13:11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。13:12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。13:13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。13:14 イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。13:15 この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。13:17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」